妄想男その28(45停止目)

 

朝。
眼が醒めると時間が止まっていた。
なんでやねん。などと一人ツッコミを入れつつ起き上がる。
部屋の隅には俺が生まれる前に死んだはずの妹が、真っ黒いスーツを着込んでいて
「サヨナラ、おにいちゃん」
と、別れの言葉を口にした。そんなあまりにも赤すぎる格好に目が痛くなった俺は、かつて妹だった姉を無視して部屋を出る。
部屋を出て隣。兄貴の部屋からは早朝にも拘わらず、女の嬌声が響いている。
まったく、兄貴にも困ったものだ。軽く扉をノックして、
「声が漏れてる」
と忠告してやる。
「大丈夫。夜だから。それに時間止まってるし」
なんて返事が返ってきた。バカか。
遠慮は無用、とばかりに兄貴の部屋に踏み込むと、そこでは局部で妹と繋がった兄貴が硬直していた。
突然の闖入者に思考が停止した、と言う風情ではなく、事実停止していた。
そういえば時間が止まっていたのだから当然だ。
窓の外は真っ暗だ。やっぱり夜だったんだ。大体にして俺には兄が居ない。
部屋を出て階下に向かう。

親父が死んでいた。
もう2年も前のことだ。
仏壇に手を合わせ、朝食タイム。
パンを焼く間に手持ち無沙汰になったので、テーブルにあるTVのリモコンに手を伸ばしスイッチ、オン。
ざぁ、と砂嵐――すら起こらない。なぁに、古いテレビだ。壊れてしまったのだろう、と納得。
しかしこうするといよいよすることがなくなった。
ふ、と妹のことが気になった。
「おーい」
と呼んでみる。返事はない。
当たり前だ。俺に妹なんか居ない。
この広い家で、生きている人間は俺だけなのだから。
焼け焦げたパンに血を塗りこんで頬張る。
血は鉄の味、なんてのは陳腐にもほどがある言い回しだが、血塗れのパンは小麦の味がした。
朝食を終え、身支度を整えて家を出る。今日は日曜日。学校に行こう。
家を出て一歩。やっぱり世界は、時間は停止していた。

人が、犬が、自転車が、新聞が、光が、音が、匂いが、想いが。
すべてが空間に固定されていて、まぁ、日曜日だしな、とどうでも良くなる。
俺は学校に行かなくちゃいけないんだ。

学校への道すがら、やっぱり世界は停止していて。音も、色も、目的も、行為も、好意も停止した世界では集中力が続かない。
仕方が無いので家を出てからずっと俺に着いてきてた姉に話しかけることにした。
「なあ、やっぱり時間止まってるよな、コレ?」
「うん。私はやっぱり朝はご飯派」
そうか。やっぱりな。
有意義な会話。やがて学校に到着。姉は途中、止まった車に撥ねられて死んだ。

学校に着いたのは良い。
ここで大切なことに気がつく。
今日は日曜日だった。時間が止まっているのだから授業があるはずもない。
しかたなく俺は席について出席確認を待った。
ほどなくして担任がやってくる。
「今日はお前だけか。時間も止まっているのに酔狂なことだ」
なんて教師にあるまじき発言。
「時間が止まっているからです」
と反論した俺に、担任は黒いパンツスーツの裾を翻した。
「じゃあ、時間が止まった理由について……少し考えよう」

講義は唐突に始まった。
「ガラスは個体じゃないって話を知っているかな?」
知っている。ガラスの表面は視認出来ないほどゆっくりと流動しているのだ。
だから数百年単位で放置されたステンドグラスなんかはある一定周期で補修しないと、ダメになるのだとか。
「世界は今、固定されているように見える。けれどそれは間違い。
 世界もまたガラスと同じように流動している。ただそれを観測する君の速度と噛みあっていないだけなのだ」
なぜ?
「時間の流れは一定じゃない。楽しいときとつまらないときで、時間の流れは異なるだろう?
 君は常に世界をつまらないと感じていた。世界のすべてをつまらない、とそう思っていた。
 だから、世界中がゆっくり流れているように錯覚しているのさ」
ああ、なるほど。一理ある。
で、それはいつ終わるのかな?
「そんなのはすぐに終わるさ」
すぐ?
「30秒ほど。ただし、君の時間ではなく、世界の時間で30秒だけどね」
時計を見る。布団を出てからまた1秒も経っていなかった。
ああ、世界マジつまんねぇ。1秒マジ長ェ。
そう思って担任に向き直る。そこには誰も居なかった。
当たり前だ。最初から校内には誰もいない。だって今日は日曜日だ。

さて、することがなくなった。
陽は暮れないし、月も昇らないので俺が何日を過ごしたのかはわからないが、世界は漸く1秒を刻んだ。
俺は海を歩いてどこかの国の内紛地域に踏み込んでいる。
飛び交う銃弾も空間に固定されているけれど、多分この内紛の意義だけは見当たらなかった。
多分最初からどこにもなかったのだろう。
歩く。

さて、することがなくなった。
陽は暮れないし、月も昇らないので俺が何日を過ごしたのかはわからないが、世界は漸く20秒を刻んだ。
俺は空間を歩いて月に到達した。
衛星やデブリや太陽風すらも空間に固定されていたけれど、アポロ11号の着陸後はなかった。
多分、そんなものは最初からどこにもなかったのだろう。
走る。

さて、することがなくなった。
陽は暮れないし、月も昇らないので俺が何日を過ごしたのかはわからないが、世界は漸く29秒を刻んだ。
俺は宇宙を駈け巡り、漸く端に到達した。
色々なものが固定されていた。モノも人も世界も。意思も目的も夢も。
だけど俺だけがどこにも見当たらなかった。
多分、そんなものは最初からどこにもなかったのだろう。
宇宙の端の向こう側にも何もないから、丁度いい。
世界が最後の1秒を刻む間には、もう地球に帰ることが出来ないだろうけれど。

多分世界は変わらずに回る。
最後に俺は妹の声を聞いた。

「サヨナラ、おにいちゃん」

宇宙の端から一歩踏み込むと、そこは俺の部屋だった。
なんでやねん。などと思っていると、部屋の隅に居たかつて妹だった姉のような彼女が、
「おはよう、お兄ちゃん」
と挨拶。そして
「物理だね。古いゲームを知っているかい?
 延々と右を目指して進むタイプのアクションゲームで、なんらかのバグが生じ、右端を越えてしまうと左端から現れるという、アレと同じさ」
などとバカなことを言う。どうでもいいさ。すぺぺぺぺぺ。
時計を見れば秒針は30秒ほど進んでいた。
彼女を見れば世界時間で30秒前にはパンツスーツ姿だったはずなのに、今は鮮血を被ったウエディングドレスのような真っ黒いゴシックロリータな姿。
で、だ。彼女が居ると言うことは、だ。
「そうだね。時間はまだ止まっている。正確には君にとっては知覚出来ないほどゆっくりと流れている」
ということ。世界時間で30秒。俺時間で(60×60×24×32582658)の1024乗秒。
バクテリアだって知的生命体に進化して、文明を築き、滅ぼしてまた築く、くらいのことをやってのけるだけの精神時間を経て……
俺はやっぱり成長していない。
とりあえず朝ごはんにしよう。
部屋を出る。

隣の部屋では相変わらず兄が死んでいた。
見ず知らずの女も死んでいた。
俺が殺した。
俺時間で〔(60×60×24×32582658)の1024乗〕+2988秒前に俺が殺した。
階下へ。

親父もやっぱり死んでいた。
俺時間で惑星の寿命が尽きるくらい放置しててごめんな。
仏壇に手を合わせ、朝食タイム。
「そういえば、姉貴はご飯派だっけか?」
「うん、よく覚えてたね。もう(60×60×24×32582658)の1024乗秒も前のことなのに」
妹が言う。止まった時間のなかでもご飯が炊けるかどうか不安だったが、どうにかこうにか炊けた。
炊いている間、手持ち無沙汰になったので、テーブルにあるTVのリモコンに手を伸ばし……あ、TV点いてる。
しかし画面は止まったまま。ああ、そうだ。世界時間で30秒前、俺はTVの電源を入れた。
30秒もすればTVは点く。ほらね。
俺が居なくても世界は回る。ニュースキャスターの顔がムカついて、TVを消そうと思ったけど、消えない。
今の俺は光よりも、速い。

ほい、ご飯。
茶碗に炊き立ての米を盛り、ねっとりと絡みつくような墨汁にも似たタングステン鋼をかけて姉に手渡す。
「わあい、ありがとう」
妹は喜んで、茶碗を差し出した俺の右腕に喰らい付き、噛み砕き、飲み下す。
右腕がなくなった。血は零れる端から停止していく。
宙に静止した紅い球塊はなんだかコンセプティックで面白い。
ご馳走様。
今日も日曜日だ。学校に行こう。

家を出る。
(60×60×24×32582658)の1024乗秒前に比べて、30秒だけ変化した世界がそこにあった。
世界は30秒でこれだけ変化するのに、俺は(60×60×24×32582658)の1024乗秒もかけて全然変化しない。
ああ、俺はホントに居ても居なくても、世界に何の変化も与えられないのだな、と思い、遠くに行きたくなった。
始発駅から電車に乗る。時間は止まっているけれど、世界は電車は走っている。だって俺は取り残されている。
電車を降りるとそこは始発の駅だった。
うむ、快適。駅前の金物屋でハサミを購入しよう。だって俺には右腕がない。

金物屋でハサミを買った。
店主に声を掛けても無反応だったので、金だけ置いて商品を得る。
当たり前だ。俺は世界に無視されている。右腕の代わりにハサミを取り付けてご満悦。ぎゅんぎゅん。
どうだ、カッコいいだろう?
「うん、すごくカッコイイ。キャプテン・フックみたい」
とかつて妹だった姉とも知れない彼女が言う。
むう。キャプテン・フックを気取るなら、フックを取り付けるべきだったか。
「あ。そうだ、フックよりは、エドワード」
ティム・バートン。ならいいか。
相変わらず彼女は腐った油を被ったようにテラテラと真っ黒いドレス姿で踊っている。
さよならウィノナ。
俺は歩くのに疲れた。彼女に会いに行こう。

時が止まって世界時間。(60×60×24×32582658)の1024乗+1秒後、俺はとある発見をした。
このくらい遅い時の流れの中でなら、光は固体だ。触れる。
でも戻れない。きっとどこにも戻れない。
砂埃のように眼球を直接に襲う光子は俺の目を灼く。右目が赤い。紅くて黒い。
黒い瞳で世界は青い。すがすがしいほどに青い。俺は空に落ちて逝く。
落ちたその先に彼女がいた。潰れた。死んだ。

さて、不慮の事故で彼女を殺してしまった。
不貞の兄と姉を殺したときと同じように、もう2の32582657乗-1回も彼女を殺してしまった。
困った。これではもう俺には愛すべき人が居ない。
愛は空間に固定され、鋼鉄の想いは稀釈されたように希薄なまま世界中に熔けてしまった。

まぁ、いいか。
宇宙のどこかで、また誰かを愛せばいい。
そう思う俺は狂って居る。
俺は狂ってなど居ない。俺を狂っているというのなら、真に狂っているのは世界のほうだ。
……なんて、思春期に抱きがちな妄執はとうの昔に消え去った。具体的に言うと30秒前。
世界は素敵なほどに正常で綺麗に美しく正しい。
この世界の、この宇宙のどこに照らし合わせても俺の価値観は狂っていて、俺は相容れない異質として認識できる。
「狂っている、と自覚したら、それは狂って居ないことだよ」
なんて矛盾を持ち出す妹を右手のハサミで撫でてやる。
気休めをいわなくてもいいんだよ。俺は間違いなく狂っている。
ゆっくりと撫でたつもりだが、手加減しすぎたようだ。姉の首は綺麗に落ちた。ごとり。
さて、することがなくなった。
多分俺はまだ、間違っていない。

またあちこちを歩き回り、疲れた俺は宇宙の端から俺の部屋を目指した。
「ただいま、おにいちゃん」
とかつて姉で妹で兄と不貞の仲であったことに気を惑わされた俺が殺した彼女に似た誰かの亡骸が生きたままの姿で
黒いパンツスーツで真っ赤な血を浴びた闇よりも昏い真っ黒な純白のウエディングドレスを穢したゴシックロリータだった
はずなのに彼女はいつの間にか重油に漬して煮しめたような猥雑で清楚な黒さを伴った喪服姿のままで俺に対して何か
を言うように周り巡るような姿勢のまま部屋の隅から動かず世界に固定されず視線だけをこちらに向けて立ち尽くすように
そろそろ朝食にしようかなどとわけのわからない訴えを伴って微笑むように微笑んで微笑む顔のままに俺を誘い階下に誘う
時計を見ればかつて時が止まったかのような錯覚を認識した時間から1分が経過してやっぱり俺は〔(60×60×24×32582658)の1024乗〕×2秒を過ごして成長していない。

まぁ、いいさ。
この世界でなら光だって掴める。

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