妄想男その26(43停止目)

■heaven or hell?

 

 無人のエレベーターは低く唸りながら僕をどこかへと運んでいた。天井の電球がぽつりと僕を
照らしている。最低限の粗末なもので構成されたようなエレベーターは鉄の棺おけのようで、ひ
どく体が冷えた。
 やがてキシっという音とともに動きが止み、めんどくさそうにドアが開いた。明るくなった視
界に僕の目は順応していく。そこはオフィスのような一室だった。
「こんにちは××(僕の名前だ)さん。どうぞ、こちらへ」
 扉の前で立っていた人物が僕に声をかける。誰だろうか。僕は彼のことを知らない。

 規則性を保って机が並ぶ小さなオフィスだった。いくつか机の間を抜けて、奥のほうへと案内
される。どの机の上もごちゃごちゃと書類が積まれていて、僕は片付けてやりたい衝動に駆られる。
「こちらです。どうぞ、お掛けになってください」
 他と同じく、書類が山になっている机だった。彼は机の前に座る。僕も言われたまま、彼の対
面に座る。

「まず最初に。残念ながら、あなたは死にました。ご愁傷さまです」何万回も言っているみたい
に、きわめて機械的な口調で彼は言う。「そしてこれからあなたを地獄に落とすか、天国に引き
取って頂くか裁判にかけねばなりません。ところが……」
「少し待ってくれないか、確認したい。僕は死んだのか?」
「はい、死にました」
「死因は?」
「それについては、現時点では説明できかねます。では、話を続けてよろしいでしょうか?」
「わかった、いいよ」
 まるで機械と会話しているようだな、と思った。

「通常、人間は生きている限り善と悪、そのどちらかに染まります。善に染まれば天国へ、悪に
染まれば地獄へと行くことになります。しかし、あなたの場合そのどちらにも染まらず生きてし
まっているのです。これでは裁判にかけようが無い。ということで、一度世界へと帰っていただ
き、そこでの行動から判断し、あなたを裁判にかけよう、というわけです」
「善? 悪?」
「そうです、善、悪です」
「何が善で、何が悪なんだろう?」
「飢えた人間にパンを与えるのが善で、親の背中にナイフを突き立てるのが悪です。もちろん、
これは例えですが。人間であれば、何が善で何が悪なのかわかるはずです」
 僕はそこまで聞いて腕組をする。何が善で何が悪なんだろう?

「石ころを蹴飛ばすのは?」
「どちらでもありません」
「煙草を吸うのは?」
「どちらでもありません」
「神様にお祈りするのは?」
「今は善です」
「今は?」
「昔はどちらでもありませんでした。現代においては善と見なされるようです。一般的に」
「なるほど」善と悪も時代によって変わるのか。

「質問は以上でしょうか」
 僕は質問が無いかもう一度考えてみる。が、特に聞きたいことは無かった。
「それでは、こちらへどうぞ」
 彼は席から立ち上がる。僕もそれに従い、再び彼の後を歩いた。

 蛍光灯が遠目の間隔を保ちながら廊下を照らしていた。コツコツと二人分の靴音が谺(こだま)
する。彼の靴音は完璧に整っていて、僕の不恰好なそれとはあまりに違った。
 それにしても明らかに光量の足りていない廊下だった。ところどころ蛍光灯が切れている。
「予算が配分されないのです」僕の心を見透かしたかのような発言だった。
「予算?」
「こちらの世界も社会があるのですよ。あなたのような特殊な人物を裁定するためだけに立派な
建物は必要ないのです」
「僕は特殊なのか?」
「はっきり言わせていただきましょう。この状況で冷静に行動できている点から見ても、あなた
は立派な特殊性をお持ちですよ」
 どうやら、僕は特殊らしい。客観的に。少し気分が滅入る。

「こちらです」
 彼は古ぼけたドアのノブを捻る。キュッと耳慣れた効果音がやけに大きめに響いた。どうぞ、と
部屋の中に招き入れられる。足を踏み入れると薄っぺらな絨毯の感覚が伝わってきた。
 薄暗いその部屋には、木製の飾り棚が壁面に沿って並んでいた。
「ここは?」
「あなたにお渡しするものがあるのです」
 遠慮がちな音を立ててドアが閉まった。彼は正面の棚に近づいていく。ズボンのポケットから鍵
束を取り出す。彼はそれに視線を落とし、10個はあるだろう鍵から一瞬で一つの鍵を選んだ。そ
れを古ぼけた木製棚の鍵穴に選んだ鍵を差し込み、半回転捻った。
「これです」
 戸を開き、彼が取り出したものはストップウォッチだった。

「どうぞ、手にとってご覧ください」
 何の変哲も無いストップウォッチに見えた。
「ストップウォッチにしか見えない」
「形状からはそう判断なされるのが妥当です。実際、それを模して作られています。通常のストップ
ウォッチと異なるのは……そうですね、言葉どおり、ストップウォッチであることでしょうか」
「どういう意味だろう?」
「時間を止めるのです」
「止める? 時間を?」
「そうです。世界に戻ったら試してみてください。ただし、制限があります。30秒だけです」
「30秒? ずいぶんと中途半端だな」
「決めたのは私ではありませんので、真意は分かりかねます」
「どうしてこれを僕に?」
「お答えできません」
「どうして答えられないんだろう?」
「お答えできません」
 まるで鸚鵡返しだな、と思った。

 再び、廊下。
 今度は少し長めの距離を歩いていた。僕はストップウォッチを色々眺めながら彼の後を追う。液晶
には30.00と表示されている。ボタンは一つしかない。
「こちらです」
 着いた先には、防火扉のように分厚そうな扉があった。ドアノブがトラックのハンドルのように大きい。
「それでは、少々お待ちください」
 そういって彼は重そうなハンドルをぐるぐる回し始めた。次第に分厚いドアが両開きになっていく。
ドアの先は霧がかかったように真っ白だった。
 やがて人一人が通れるほどの感覚が開くと、彼は一息ついてこちらを向いた。
「世界への帰り道です。どうぞ、お通りください」
「この先はどうなっているの?」
「歩いていただくだけで結構です。10歩も歩けば世界へと到着するでしょう」
 あまり気乗りはしないが、そうするしかないのなら仕方ないだろう。

「色々とありがとう。最後に、名前を聞いてもいいかな?」
「ディックです。本名はディック・シュガーメルスと申します」
「また会えるかな?」
「そうですね。あと4時間以内にこちらに戻ってきていただければ」
「それを過ぎるとどうなるんだろう?」
「私は行きつけの焼き鳥屋『楔』でビールでも飲むつもりです。地獄の煉獄町44条4丁目にあります。
もしあなたが地獄に堕ちるようならまたそこで会いましょう」
「わかった。それじゃ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃいませ」
 とても不細工な笑顔で、ディックは僕を見送った。

 ドアを抜けて4歩歩くと、自分が壊れていく感じがした。
 5歩で自分が何者かわからなくなった。
 6歩の足元が崩れた感じがした。
 7歩目で視界が消える。
 8歩。歩行する感覚がなくなっている。
 9歩。僕は歩いているのだろうか。
 10歩。僕は――


 ――背中にフローリングの感触が伝わってくる。
 気持ち悪い。腰が痛い。ここはどこだろう? 目を開けてみる。暗い。
 暗い部屋にいた。

 目の前を見渡してみる。テレビとパイプベッド、箪笥と衣類掛けがある。ぐるりと首を動かす。大丈
夫、体は動く。女性の下着が掛かった物干しとカーテンと窓が見えた。太陽は完全に沈んでいて、雪が
ちらついている。
 どこかのアパートの一室に、僕は倒れこんでいたようだ。

 どこだここは?

 あまり見覚えの無い場所に僕はいた。もしかしたらここが僕の家なのかもしれない。そんな馬鹿な。
僕は自分の部屋を思い出してみた。ちゃんと思い出せる。少なくとも、こんな部屋じゃない。
 ここにくる以前のことを思い出してみる。なんだか不思議なところに居た。そしてそこでディックと
いう不細工な男に色々と説明してもらった。そういえばストップウォッチを貰ったけど……大丈夫、持っ
ている。

 その時、玄関から鍵が開く音が聞こえてきた。
 ドアが重そうに軋む音がして、誰かが部屋に入ってくる。
 パチンと部屋の電気がついた。
「――え?」部屋に入ってきた彼女は驚いていた。
「ん?」僕は気の抜けた反応をするだけだった。

 標準以上に整った顔をしている彼女であったが、突然部屋に居た僕を見てかなりゆがんだ表情
になってしまった。
「待ってくれ、落ち着いてくれないか。僕は何も覚えていないんだ。起きたらここに居た」
 発言している当人の僕が言うのもなんだが、説得力のかけらも無い。
「あ……あ……」
 顔が真っ青になる彼女。
「問題があるならすぐここを出て行く。君を害するようなことは何もしない、落ち着くんだ」
「イャ――むぐっ」
 叫ばれるとまずいので、口を押さえることにした。

「まず聞いてくれ。僕は本当に何も覚えていない。起きたらここに居た」
「……」
「正直、君の事を僕は知らない。美人だとは思う。それ以上でも、それ以下でもない」
「……」
「僕はストーカーじゃない。君に害を与えようなんて思っていない。そもそも、ここがどこなのか
わからない。よければ案内してほしいんだけど」
「……?」
「とりあえずここを出て行こうと思う。君には悪いことをしてしまったと思うけど。いいかな?」
「……。」
 こくこくと、彼女は頷いた。

 数分後、なぜかコーヒーが出てきた。「どうぞ、座ってください」とコタツを勧められたので、
ありがたく入れさせてもらう。一口、コーヒーをすすると体が温まってきた。おいしいコーヒーだ。
インスタントじゃないことは香りを嗅げば誰でもわかる。

「まず、始めにですけど……」彼女は一呼吸おいて続けた。「私のことを知っていますか?」
「最初に言ったけど、まったく知らないんだ。君が誰なのか、ここがどこなのか。自分のことは分
かっているつもりだけれど」
「次にです。体は痛くないですか?」気遣ってくれているのだろうか。
「硬い床にそのまま寝ていたから腰が少し痛いけれど、それ以外はなんとも無いよ」
「……最後にです。ここに来る直前のことは覚えていますか?」
「少し考えてもいいかな?」
「あ、はい」

 彼女の様子が変だった。もしかしたらディックと知り合いなのかもしれないな。どこまで話して
しまってよいのだろうか。
「天国と地獄って信じる?」少しかまをかけてみる。
「え、えーっと……は、はい」
「その直前にはオフィスがあるんだ。中庸を保ち続けた人間はそこに運ばれてテストを受けること
になる」
「……は、はぁ」
 怪訝な目で見つめられる。どうやらあの世界とはまったく関係が無いようだ。

「ここに来る前と言ったね、どうやら本当に記憶が無いようだ。なぜここに僕が居るのか、本当に
分からないんだ」
「そ、そうですか……」
 その時、彼女は確かにそうつぶやいた気がした。

「よかった……」

 

 良かったら泊まっていかないかという彼女の誘いを受けたが、丁重に断った。見知らぬ人と寝る
趣味は無い。
「それじゃ、失礼。本当に迷惑を掛けてしまった。申し訳ない」
「いえ、全然いいです……こちらこそ」
 そう言う彼女は、何かに脅えているような表情をしていた。

 小さな二階建てのアパートだった。外には駐車場があった。
「……?」
 なんだか見覚えのある黒い車がとまっていた。ボンネットがへこんでいる。フロントガラスに
亀裂が入っている。修理に出さないのかな?
 それにしても、どうして僕はこの車に見覚えがあるんだろう? 黒い車……?

「あ……」

 思い出した。
 僕はこの車に轢き殺されたんだ。
 生前の最後の記憶がよみがえる。

 その時、僕は不幸にも横断歩道で転んでしまった。僕は足が不自由だったし、圧雪した雪は氷と
同じようによくすべるのだ。
立ち上がろうとしたその時、歩行者の信号は赤く変わっていた。
「あ」
 黒い車が走って来ていた。まるで猛然と馬を駆るデュラハン。運転手は気がつかない、減速しない。
「参ったな」
 それが僕の最後の台詞だった。

 僕には一つ確信があった。
 この黒い車は彼女の物だということだ。
 僕が死んだこと、時間を止めるらしいストップウォッチを渡されたこと、ディックによってここへと
送られたこと。すべてから推測しても納得がいく。

 ようするにこれは、このストップウォッチを使って僕を殺した彼女をどうするか、というテストなの
だろう。

 彼女に対する怒りが無いと言えば嘘になる。僕だって生きたかったのだ。でも、仕方が無い。僕は
死んだのだ。
「ねぇディック、聞こえるかな」ディックが聞いていることを期待して、僕は語りかける。「僕は何も
しないよ。どうしようもないんだ。これは単なる事故だ。僕は彼女に轢かれてしまった。結果的に僕は
死んだ。それだけだ。死人は人間に干渉すべきじゃない」
 ディックからの返答は無かった。

「ごめんなさい……」
 でも、僕の背後で彼女はそう言った。

「どうして生きているの? 私はあなたを殺してしまったはずなのに」
「天国と地獄って信じる?」
「……はい」
「その直前にオフィスがあるっていう話を僕はしたよね?」
「はい」
「僕みたいな人間は天国にも地獄にも行けないらしい。特殊すぎて。でも人間はいずれか一方に行かなければ
ならないらしい。その人間が善ならば天国へ、悪ならば地獄へと。僕はそのどちらにも染まらずに生きてきて
しまったようだ。
 そこで今だ。再び生きるチャンスが与えられた。僕が君に何をするかで判断するようだ。僕は足が不自由だ
けど、時間を止めるある道具を与えられた。君を殺すことだってできる。でも何もしない。したくない。死人
は生者に干渉すべきじゃないと僕は思うから」
「私を許してくれるの?」
「どうだろう、僕は鈍感なんだ。自分の心に対してもね。自分が怒っていることにも気がついていなかったり
する。でも心は君の事を憎んでいるかもしれない」
「ごめんなさい」
「そう、人間は謝罪することができる。いいよ、僕は君を許す」

 その時、空から一筋の光がスポットライトのように僕を照らした。

「あなたはどうなるの?」
「天国か地獄に行くんじゃないかな」
「天国と地獄か……私が死んだら地獄行き確定ね」
「地獄と言っても安心してもいいと思うよ。焼き鳥屋があるらしいんだ」
「焼き鳥屋? 地獄なのに?」
「そう、『楔』っていう焼き鳥屋らしい。地獄の煉獄町煉獄町44条4丁目にあるって聞いた。もし君が死んで
地獄に行くことになったら行くといい。もしかしたら不細工で機械的な男と僕がいるかもしれない」
「……分かったわ」
「それじゃ、機会があったらまた会おう」

 直後、僕は膝から崩れ落ちた。
 魂は体を抜け、一気に天へと駆け上がった。

「本当にあきれた男ですね」
 不細工な顔をゆがませて、ディックはそう言った。
「結局僕はどうなるのかな?」
「あなたは天国にも地獄にも行かないことが決定しました。こちら側の住人になっていただきます」
「こちら側?」
「私のような仕事に就け、ということです。こちらの世界では『死神』や『天使』などと呼ばれている
職種です」
「死神? 天使?」
「業務内容は後々お教えいたします。とりあえず、そうですね。仕事が終わってからビールでも飲みに
行きましょうか。あと一時間ほどで終わります」
「僕の死亡祝いでいいかな」
「よろしいですよ。別に何でも」

 しばらく、彼の仕事が終わるのを待った。黒い服を着たツインテールできりっとした目の女の人が
オフィスに来た。
「ディックさん、ストップウォッチ10個。使ったら消える方をお願い」
「こんにちはデスさん。御仕事のほうは順調ですか?」
「まぁね、最近は仕事も少ないし楽でいいわ」
「あれ? 相方の彼は今日は居ないのですか?」
「疲れて寝ているわ。腰が痛いって。昨晩少しいじめ過ぎちゃったかしら」さりげなくすごいことを
言う黒い服の女の人だった。
「そうですか」
 冷静に、そして淡々と仕事をこなすディックだった。

「お待たせしました、それでは行きましょうか。ご案内いたします」
「うん。少し楽しみだ」

 それから数年後の話になる。
 僕は彼女と再会した。地獄の焼き鳥屋『楔』にて。

「私はあなたを轢き殺し、その死体を隠蔽した凶悪犯になってしまったの」
「なるほど。あっちの世界での裁判ではどうなったの?」
「叙情酌量の余地なし。死刑だって。まぁ仕方ないわね。事実私はあなたの死体を隠そうとしたの
だから。それに死んだ後でも地獄行き。即決だったわ。さすがに気分が滅入ったわね。まったく、
ひどい人生だったわ」ぐいっと、彼女はカクテルを呷った。
「こっちの生活はどう?」
「満足しているわ。あまり向こうの世界と変わらないんだもの。変わらなさすぎて死んだ実感が
ないぐらいよ。ここが地獄なら天国はどうなっているのかしら」
「それはよかった」
「それにしても、あなたそういう格好が似合うのね」
「この黒いスーツのこと? どうもありがとう」
「今は何をしているの?」
「死神っていう仕事をやっている」
「へぇ、面白そうね」
「そうでもないよ。悲惨な人の結末ばかり見るような仕事だ」
「でも充実しているっていう顔をしているわ」
「そうだな、そうかもしれない」

 生まれつき、僕は足が不自由だった。子供の頃から病院と家とを往復する生活だった。中学を卒業
して、小さな工場に就職して、少しの給料だけで生活してきた。楽しみは読書ぐらいだったのだ。本当
に何もしていない人生だったと思う。今は人並みに働くことができて満足しているのかもしれない。

「ごめんなさい」
「どうしたの? 急に」
「あなたには何度謝っても足りないのよ」
「償いはしたじゃないか」
「え?」
「君だって死んだんだ。もう十分だよ」

□heaven or hell? / 妄想男 / 完

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