かつを その20(46停止目)

ふらじゃいる

 

 目を覚ますと、まず何やら美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。その匂いに
つられる様にベッドから体を起こして、リビングに向かった。テーブルに着
くと、開け放たれたカーテンから快い朝日が差して。
「おはようお兄ちゃん。今日は早いね」
 妹のその一言で、朝なのだと改めて実感する。
 時計をちらりと見て、
「いつもと変わらないだろ」
 独り言のように、建夫は言った。なんだかママゴトみたいだな、なんて思
いながら、朝飯がテーブルに運ばれるのを待つ。実際、成人してすらいない
兄妹が夫婦のように暮らす様は、傍から見ればママゴトである。
「変わるよ」
 妹の真琴はせっせとご飯をよそう。そんな思春期の拙い自覚が微笑ましい。
 できぱきとテーブルに並べていく真琴の小ぶりなお尻に、建夫は朝立ちが
収まらない。

 朝のニュースが、どこぞの紛争を伝えている。ストーカーの果ての凶行を
伝えている。続いて……。
 そんな話題とは対照的に、ここは争いやイザコザなどとは全く無縁の世界
だ。建夫は考える。ホカホカご飯に焼きたての卵焼き、鳥の鳴き声。朝の
ニュースなんて気にせず朝食を口にする真琴の姿を見る。全くもって変哲の
無い平凡で平和な日常だ。そして、それはきっと些細な事で崩れてしまうも
のでもある。
 もしも、そんな日常を脅かす存在が出現するならば、きっとそれを許さな
い。例えばニュースであったような、ストーカー。迷惑な隣人。さらには普
通なら見過ごしてしまうような些細な事であっても監視、必要ならば排除で
ある。平和を保つためには、積極的な干渉、言ってみれば闘争が必要なのだ
と考える。それが、平和とは逆行しているように思えても。
 よって、
「……この小包は何なのだ!」
 建夫は、テーブルの上に無造作に置かれた小包も決して見逃さない。見慣
れない小包に手を伸ばし、眼前に据えた。
「さあ何だろうね。今朝郵便受けに入ってたんだけど」
 差出人不明である。
 建夫は一息に包装を破いた。もしそれが災いの種ならば、確実に迅速に葬
らねばならない、と判断したのだ。

 中には操縦桿のような物が入っていた。メタルブラックで、しかしコード
も電池の入り口も無い。ただのガラクタのようにも見えるが。それでいて、
頭頂部の赤いスイッチ(?)がやたらに映えていた。
 握ってみると、まるでオーダーメイドのように手に馴染んだ。
「……何ソレ?」
 変なモノを扱うような目で見る真琴と、建夫は対照的に。
「分からんが……大変美しい」
 それに見入るようにして、心の中で呟いた。魔力。オーラ。持つ本人にし
か分からない、それでいて正体不明な凄みが滲み出ているような気がした。
建夫は吸い込まれるように、赤いスイッチに親指を向かわせていき……。
「それ押すの?」
 真琴の言葉で、我に帰り親指を離した。そして自分の軽挙さを呪う。
 もしも仮にそれが爆弾だったら。自分の手でこの平和を跡形無く消し飛ば
していた。いや、さすがにそれは無いとしても、何かしら害のある物かもし
れない。そう思うと、少しうすら寒くなった。
「……さっきからね、何だか変な音聞こえる? きゅるきゅる、みたいな」
 そして、建夫の悪寒は止まない。
「……ああ、俺の腹だ」
 ちょっとトイレ。

「オラッ」
 勢いをつけた上に、腸を絞るように意識する。次いで「モリッ」
 尻に残された質感をたどると、快便とはいかないまでも、そこそこの排便
だという事が分かった。引き続き脱糞に専念する。
 やがて寒さも退き、次第に体が温まる。建夫は最後の一捻りを効かせてお
く。両手を握り込み、血圧が急上昇しないように息を吐きながら最後の一つ
を放った。――はずなのだが、然るべき反応が無い。肛門と排泄物が分かれ
る際の感覚のひずみが無い。水の跳ね返りも無い。
「何故」
 股グラを覗き込んで、建夫は飛び上がった。排泄物が宙に浮いていたのだ。
そして、それは建夫が離れた後も、ひたすら静止し続ける。
 そんな光景にまず自分を疑い、「夢かもしれない」頬を抓ろうとした時、
「こつん」自分の右手に何かがある。見てみるとメタルブラックのスイッチ
が握られていた。
 次の瞬間、排泄物が音をたてて水に飛び込むのを見て、建夫の中で一連の
出来事が繋がった。
 恐らく――あまりにもしっくりきたものだから、そのスイッチを手にした
ままトイレに来てしまったのだ。そして、気張った時に思わずスイッチを握
り締め、押し込んでしまったのだ。
 それならば、先程の現象はこのスイッチに因るものだろうか。
「もしかして、うんこをその場に止めておくスイッチ……じゃあないよな」
 爆弾のスイッチではなかった事にひとまず安堵し、そそくさとトイレを出
ることにした。スイッチの事を考えるにしても、学校へ向かう準備をするに
しても、トイレは適切な場所ではない。

 湧き上がってくる非科学的なクセに現実的な考察を、中途半端なまま排泄
物と一緒に流した。そして、トイレのドアを開き。
建夫は目を剥いて再びトイレにもぐり込んだ。
「……ん、俺の平和に災いが来てる?」
 便器に腰かけ、呟く。ドアの向こう――洗面台に見た事のない老人が佇ん
でいた。 突拍子も無い光景の意味も原因も分からず、ひいては災いだとし
ても、一体どうすればいいのか分からない。

 そんな建夫の事情など知らず、真琴は「いってきまーす」元気に家を飛び
出た。
 建夫は絶望的な気持ちで、その挨拶を聞くのだった。

 

「それは時間を止めるスイッチ」
 建夫が、声のした方へ顔を上げると、その老人の顔があった。……ドアを
透り抜けた顔がこちらに晒されている。かなり非常識な光景に、記念撮影
の時の顔抜きハリボテを連想したりする。
 何だか急に馬鹿らしくなって。建夫はドアを無造作に開き、老人を無視し
てリビングへと向かった。
 テレビをつけると、空楽しそうなバラエティーが繰り広げられていた。そこ
で、手元のスイッチを押す。テレビの画面は止まる。壁に備えられてある
アナログ時計を確認。ここで、時間停止のスイッチだと確定。
 しばらくするとテレビ画面もアナログ時計も動き出した。「放っておくと、
勝手に動き出すのか」などと考えながら、傍で佇む老人に手を伸ばすが、
触れることはできない。
 成程、科学的だとか、そういったものとは無縁。まともな存在ではないら
しい。

 止まる時間は30秒程度で一定。
 停止中に椅子を蹴ると、時間が動きだすと同時に吹き飛ぶ。
 試しに何度も押してみて、分かったのはそれくらいだ。実験するにしても、
考察してみるにしても、あまりに突拍子の無い事なので、手のつけ方が分
からない。
「ところでアンタは何なんだ?」
「神様だよ」
「ま、そんなところだよな」
 時計を見ると、既に10時を超えていた。今更学校に行くのも気が進まない
ので、本日は休む事にする。
 真っ直ぐ自室に向かって、そのままベッドに潜り込んだ。睡眠時の脳の働
きに期待する。今までの情報の整理の一切を自分の脳に丸投げしてやるのだ。
現状の理解だとか、スイッチの使い道だとか。
 それに、やっぱり夢かもしれない。
 頬を抓ってみる。夢の中だろうが痛いものは痛いものなのだ。

 ――気がつくと、夕陽が窓から差していた。時計を見ると午後4時をまわ
っている。
 約6時間の睡眠に腹を空かせ。食べ物をつまもうとベッドを軋ませながら
身を起こすと、(自称)神様が同じベッドに腰掛けているのが目に入った。
自分の頬を抓ってみる。
 建夫はとりあえずテレビをつけて、神様の隣に溜息と座り込んだ。やかま
しいベッドとテレビが、二人(?)きりの空間を心地よく裂く。
「……ところで、アンタ何で俺の所に来たんだ?」
「いや、君の所というか何と言うか。何故、と言われると割と難しいんだけ
どもね……」
 歯切れが悪い。ベッドは家に響くくらいに激しくギシギシ軋む。
 睡眠の末に理解など無かった。しかも、起床時の気だるさで余計に酷い事
になっている。
 建夫は頭を抱えながら、フローリングをぼんやりと眺めた。すると、リビング
から足音がするのに気づいた。どうやら、自室に近づいてきているらしい。
「……真琴、もう帰ってたのか」
 なんて悠長に構えつつ真琴を待っていたが、足音が近づくにつれ、
「この状況……ダメだよな」
 憂慮が噴き出し始める。

 ベッドが激しく軋み。あまつさえ見知らぬ老人と兄がシーツを共にしてい
る状況。多分、妹にとってあまり良い光景ではない。
 とりあえず、老人(神様)をベランダにでも放り出しておくか。なんて、
焦りを隠すように敢えて悠長に構えてみるが。
「あ、そういえばコイツ触れないんだ……」
 差し出した手が、虚しく空を切り。同時に汗が噴き出す。老人のすっとん
きょうな表情に破壊衝動が湧き、テレビのコメンテイターの張り上げ声がそ
れをかき回す。
 どうにもならない状況に、建夫は同じような思考をひたすら繰り返し。ドア
ノブが回される音で、それは臨界点に達した。

 ドアを開けて真琴が見せた怒り顔は、建夫に「うお、可愛い」などと思わ
せる暇も無く――しかし建夫の心配とは裏腹に、
「お兄ちゃん、学校行ったの?」
 強い語気ではあるものの、そう言うだけだった。
「いや……行ってないけど」
 予想外れな真琴の言動に、建夫は妙にすかされた気分になる。
「はぁ……」と呆れたような真琴の溜息が、建夫にとってむしろ落ち着ける
くらいに。
「受験生なのに、全く」
 そう言って、真琴は部屋を出た。

「……アンタ、俺以外の人には見えないんだな」
「うん、そう」
 建夫は途端に脱力するような感じを覚えた。
「じ、じゃあ改めて、アンタがここに来た理由は何だ?」
「その黒いスイッチの付き添い」
 なんとも舐めた返答である。そんなやりとりの間、台所では真琴が夕食を
つくる。

「ちなみに、ウナギを生で食べると中毒になるらしい。血がダメらしいんだ、
血が」
「……知らないよ。それよりも、明日は学校に行きなよ」
 そんな会話を交わしながら、建夫は鰻丼をかきこんだ。こころなしか食べ
ている傍から滋養が強壮されていくような気がする。さすがは鰻。
 建夫が鰻をおかわりしている間に、真琴はごちそうさまを済ませ入浴の
用意を始める。

 大抵の女の子がそうであるように、真琴もまた一番風呂は譲らない。
「ま、入った後の方が、色々とな……」
 風呂場に向かった真琴をちらりと見ながら、建夫は懐からスイッチを取り
出した。
「これを何に使うか……」
 真琴を肴に妄想は良からぬ方向へと進むが、建夫はそれを悪しとしない。

「――で、アンタも風呂に入るのな……」
 真琴が入浴を終えて。建夫が風呂場に向かうと、神様もついてきて真っ先
に湯船につかった。止めようとしても止めようがないので、そのまま放って
おくと、顔を赤くして恍惚に染まった顔になった。
 神様に少し遅れて建夫が湯船につかると、成程良い湯加減だった。次第に
湯熱で染まっていき、先程食べた鰻と相乗して体が脈打った。
 風呂から上がっても、脈は止まず心臓が跳ねる。血液は巡り巡って体中の
動きが勃興した。
 そのままリビングへ向かうと、そこでは真琴がテレビを見ていた。入浴後
のみずみずしい髪に丸い目。余熱で耳は以前赤く、幾分大きなパジャマは――。

 不意に意識してしまう。建夫の活性化された細胞はダイレクトに性欲を喚
起した。それに促されるがままに懐のスイッチに手をかざす。
「本当にいいのか?」
 気後れする気持ちを必死で取り繕う。結局は虚構なのだ。この世界では
神様は何にも触れず、また認識されないように、自分が時間を止めて何を
しようと、それはこの世界には特に問題は無い。従って何をしても良い。
「真琴、お前もしかして初めてか?」恐らく初めてだろう、と自問自答。夜遅く
まで遊んだ事も無ければ、白々しい色気を感じた事も無いのだ。
 それならば、
「初めての相手は他の誰でもない。この俺だ」
 真琴の瞳に映り込んだ。と同時に、建夫はスイッチを押した。

 次の瞬間、真琴の小ぶりな胸が揺れた。次いで左右に揉み回され、その
胸に添えられた手は、喜びを噛みしめるように、丹念に蠢く。

「アレ? 俺まだ触ってないぞ」
 その光景を建夫は信じられない思いで見た。――神様が背後から真琴の
胸を揉んでいたのだ。今までの人畜無害な表情からは考えられない形相で。
 ズキュウウウン! などと奇声をあげて、建夫は神様に飛びかかった。理
性は弾けて、殴り飛ばさずにはいられなかった。横っ面目掛けて拳を振り回
すと、会心の一撃――神様は吹き飛んだ。
 振りぬいた拳には確かな感触と、不確かな困惑。
「何で、コイツ実体化しているんだ?」
 などという疑問は、しかし、次々に湧き上がる怒りに塗り消されて、建夫は
本能のまま追い討ちをかけた。

「ふう」と一息つく頃には15秒。神様の顔は膨れ上がって、もう痙攣すらしない。
 そんな神様を転がしたまま、一連の流れで真琴と唇を合わせる。止まって
しまうと、頭が冷めてしまいそうだった。
「おッ、ウソっ」
 女の子の唇とはこれほど柔らかいのかと、感心する。続いて舌の挿入を試
みるが、真琴の歯でつっかえた。口の開きが足りなかったのだと考え、手を
真琴の口に入れて半ば強引に開いた。
 そのまま手で顔中をまさぐりながら、舌を押したり舐めたりする様は、蜜を
前にした虫のようだ。――25秒。
 悪あがきに、建夫は真琴の股間に触れた。しかし、30秒への焦りで感触は
よく分からない。

 建夫が真琴から離れると、30秒。途端にフィルターが剥がれたように、周り
が鮮明になり、相変わらず真琴は建夫の方を見ていた。
「ん……どうしたの」
 目を逸らしながら真琴は言った。顔はまだ赤く、建夫の息が不自然に上が
っている事に気づく様子は無い。
 神様は部屋の隅で虫のように転がっていた。

 大方の人が寝静まった頃。
 夕飯時に気絶していた神様は気を取り戻し、今は建夫を威嚇する作業に
努めている。
「やってくれたなキサマ!」
 本性を剥き出しにして、建夫の静かな夜を妨げている。
 建夫はベッドに腰掛けて、今日の出来事を思い返していた。神様に手を
伸ばしてみる。触れる事はできず、通り抜けてしまうだけだ。しかし、自分は
実際に神様を殴ったのだ。
 どうやら、時間が止まる間だけ、神様は実体化するらしい。
「うかつに時間を止めれば、殺されかねないぞ」
 目を吊り上げる神様を見ながら、建夫は懐柔する方法を考える。しかし、
夜も更けて頭が上手く回らない。だが、隣で騒がれているためにこのまま
では眠れない。
 建夫は、仕方無しに、一つだけ浮かんだ妥協案を神様に提示してみる事に
した。
「あのな――――」
 実際にその通りにするかどうかは別として。

 

「おーい、そろそろ起きろー」
 リビングから聞こえるその声を、ようやくの思いで聞いた。
 待ちわびていたのだ。うつらうつらとやってくる眠気も、その都度、膨れ
上がった妄想で台無しにされた。
 昨夜の戸惑いは一欠けらも残されていない。眠気は多少あるが、かえって
寝起きの問題も無い。
 パタパタと、真琴が自室に向かってくる音。
 建夫は身構えながらそれを聞いた。朝立ちとともに、興奮のボルテージも
低くない。
「おい、昨日の話だけど……」
 緊張で固まった沈黙の中、神様は切り出した。
 建夫は応える代わりに、机の上のスイッチを手に取り、何度も握りなおし
た。しっくりくるポイントを探す。

 カーテンから漏れる光。ふと、その上に蛍光灯の灯りが重る。それを辿る
と、ドアから顔を覗き出した真琴が
「あれ、起きてたんだ」
 意外、というような声を出した。
 建夫はスイッチを背に隠しながら、真琴に近づき。
「うん、まあね。朝ごはんできたのか?」
「うn――」
 そして、真琴の言葉を遮るように時間を止めた。

「え、マジ?マジ? いいんだな? オイオイ」と神様が吼え、「ムードを読め」
と建夫は喝を飛ばす。
 言葉とは裏腹に、神様は何の躊躇もなく、真琴の顔に吸い付いた。頬、耳、
鼻。見境無く舐め回し、自分の唾液ごと吸い上げる。
 建夫は正面から真琴に抱きついて、できるだけ強い力で全身を擦りつける
事に専念した。すぐ耳元で神様が鳴らす、不快で卑猥な音は「んッ、うッ」
聞こえない。
 スクワットの様に体を上下させ、さらに腰のこねあげる動きで、最大限に
固くなった性器が、柔らかい体に食いつく。服の上からでも、ぴったりと交
わるような感覚を得た。

 股間を32回擦り合わせたところで、建夫は離れた。――25秒。
 真琴の股間に手をあてて振動を加えた。押し込んでみると、表面は柔らかい
くせに、奥は多少筋張っていたのが、少し官能的でもある。

 さて、神様の表情――あらゆる煩悩または害悪を埋め込んだような面に吐
き気が差すが、これが神様を懐柔するための昨夜の妥協案であり、時間停止
の交換条件なのだ。我慢するしかない。
 それに、時間停止中の出来事などまやかしなのだ。例えば、神様が真琴に
つけた唾液も、時間が動き出せば全て無かった事になる。――30秒。真琴の
体に刺激だけを残して。

「――んっ」
 30秒が経つと、まるで刺激を受けた合図のように、顔を染めて目を逸らす。
言うまでも無く、その刺激は性的なものである。
「あ……あとは、テーブルに並べるだけだよ」
 真琴は振り返ってリビングに向かっていく。
 建夫は引き止めるように時間を止めて。背後から抱き締め、真琴の匂いを
嗅ぎながら、まるで交尾みたいに体を動かし続けた。

 停止中に蹴った椅子が、30秒後に倒れた。
 停止中に放ったボールが、30秒後に飛んでいく。
 停止中に加えた力は、30秒後に働くのだ。
 停止中に刺激を受けた真琴は、30秒後に赤く染まる。

 ――授業一時間目から体が重い。窓際、最後尾の席で上体をダラしながら
建夫は授業風景をぼんやりと見つめた。
 味を占めた体は、真琴の事を求めるばかりで、黒板に集中する事も授業に
ペンを走らせる事もままならない。
 最後まで体験してしまいたい。くすぶったままの体ではつらい。然るべき
部分に力強く挿し込んでしまいたい。注ぎ込んでしまいたい。しかし、その
ためには、30秒はいささか短すぎる。

 絶賛発情期な建夫の横には神様が立ち、教室をつまらなさそうに見ていた。
「何じゃこの空間は? 授業? 実につまらんなあ。それに何という不細工
の溜まり場。全く喚起されんぞ、こりゃ」
「あのなあ、つまるつまらない云々じゃないんだ授業は。……ちなみに後半
には同意」
 目配せと筆記で、建夫は自分の意見を適当に伝えておいた。

 ただ「――ここからの景色は格別だな、おい」
 神様は窓際に手をつき、校舎一つ向かいの教室を見やった。建夫もまた、
窓の向こうに視線を送った。
 そこからは真琴のいる教室が見える。
 窓際に来れて本当に良かった。姿勢を正しながら授業を受ける真琴を見て、
建夫はつくづくそう思う。

 六時間目の授業が終わり、HRの時間。先生が教壇に立ち、小話やプリン
ト配布に取り掛かり、生徒達は思い思いにお喋り等に興じる。
 建夫と神様は変わらず真琴の教室を覗き見ていた。ただ、神様の表情が
急激に、穏やかでなくなってきている。
「……あの男、いつもああなのか? ほらアイツ」
 神様がいきなり指した男子を、建夫は訝しんで見た。
 真琴の後ろに席取るその男子はHRの間中、真琴を凝視し続けていた。
「まあ確かに変ではあるが……」
 年頃の男子というのは、普段着の女にさえ興奮してしまうものだ。それは
最早、生理みたいなもので、許容するべき事だろう。
 しかし神様は依然、その男子を睨み続けていた。

 放課後、たむろう同級生達を尻目に、建夫は神様だけを連れて帰る。
 一緒に帰る友達がいない件に関しては、特に何の感情を抱くことも無い。
周りを行く何人もの制服姿には目をくれずに、土手の坂道を上って行く。
 左側には川原。水面を置いて、西日が建夫の目に入った。少しばかり強
すぎる日光に、建夫は瞼を落としながら歩いた。

 そうしてしばらく歩くと、視界の端に見覚えのある制服――スカートから
のぞく脚が見えて、顔を上げると真琴だった。
 建夫は目を開き、先を行く真琴に駆け寄ろうとして、ピッチを上げた途端
「少し待て」神様の言葉で歩みを止めた。
「あの男がいる」
 神様が指した方向を見てみると。真琴をずっと見ていた男子がいた。
 そして、今も真琴を見ながら歩いている。もしかして、同じ方向に家があ
るのかもしれない。とも考えてみたが――だが、何かがおかしい。
 意に介せず真琴の元に向かうには、明らかに奇妙なものを感じた。しかし、
具体的に何がその原因なのかは分からない。
 建夫は様子を見つつ、真琴と男子を尾行する事にした。

 

 男子は真琴をじっと見ながら、ストーキングを続ける。
 その姿に、(ストーキングに拠るものだけではない)何か奇妙な雰囲気を感
じて、建夫は真琴の元に駆け寄る事ができないでいた。
 ストーキングの理由も分かりかねる。
 しばらくは様子見ということで。男子にも真琴にも気づかれないようにして、
建夫は後を追けた。
 しかし一向に、男子が行動を見せる兆しが無い。
自分の検討違いだったのかもしれない。と建夫は思い始めた。
 改めて見ると、結構男前な男子である。その上、髪型や服装を崩したりして
いないものだから、果たして、疑っていた自分の見当違いのような気さえして
くる。
 とてもじゃないが、悪事を働くような人間には見えないのだ。
「勘違い、なのか……」
 男子は行動を起こさない。
やがて、真琴が家に上がるのを見届けて、建夫もまた家へと向かうことにした。

「ちょっと、待て」
 建夫を神様が引き止めた。
 真琴が帰宅すると同時に、男子が行動を起こし始めたのだ。懐から何やら
ゴソゴソと取り出す。
 その姿に、建夫の猜疑心が再び顔を出す。建夫は急いで物陰に姿を隠し、
そこから男子の様子を伺った。
 建夫の視線の先で。男子がストップウォッチのような物を取り出し、それを
見ながらメモ帳に書き込んでいく。
「真琴の帰宅時間でも測っていたのか?」
 建夫は、身を乗り出して確認しようとするが、多少距離があるために詳しい
ところまでは分からない。
 時間を止めることにする。

 瞬間、全てが固体化。
 建夫は男子の元へ向かった。10秒。男子が手にしていた物が、ストップウォ
ッチではなく、万歩計だという事が分かる。
 次いで「――何を書いているんだ?」メモ帳を確認してみると。
「歩数で考える真琴ちゃんの今」などと題されている。途端に、建夫の背中に
気味悪いものが走った。
 指先でつまむようにしてメモ帳を開いていくと、整然と立てられた表に、恐ろ
しい程丁寧な字で、真琴の帰宅に要した歩数が記されていた。それもほとんど
毎日欠かさず。
 建夫は、心地悪い汗を流しながら、男子の考えを理解しようと努めた。
 男子は真琴を追跡することで、その姿を堪能するだけではなく、彼女の歩
数を測り取っていたのだ。そして、彼独自の何らかの方法でそれを吟味し、
楽しんでいる。
 建夫が今まで感じていた違和感の正体は、男子の雰囲気だとかそういった
ものでは無い。ごく物理的な――真琴と歩調を合わせる上での、男子の不自然
な歩みだったのだ。
 不意に体中が毛羽立った。男子に対する極めて強い不快感――生理的嫌悪感
が建夫をすくみ上がらせた。
 時間は、進む。25秒。
 ふっと我に帰る。今は、身を隠す程度の時間しか残されていない。

 ――――男子が帰るのを物陰から見届けた。
 帰宅すると、出迎えた真琴を抱き締めた。
「何だか疲れた顔してるね。どうしたの?」
 心配そうな素振りを見せた真琴の、無抵抗な口に舌を入れた。
 晩御飯を作っている最中も、食べた後も、テレビを見ている最中も。事ある
毎に建夫は時間を止めた。
 その都度、真琴は赤い顔と乱れた息を返す。

 どうやら、世界には建夫の脅威で充ちているらしかった。
 時間を止めても決して平和ではない。神様が息を荒くして待ち構えている。
 積極的に動く必要がある。何者かに壊されてしまう前に。
 ――建夫は時間を止めて、幾度も真琴を弄ぶ。
 真琴を欲情させてしまえばいいのだ。我慢できないくらいに。そうすれば、
真琴に関しての脅威は無くなる筈だ。既成事実を作れたならなお良い。

 

 直面する問題一つ一つを先送りしたりせず、地道に解決していけば、やが
て平和が訪れるはずだ。こと、個人的な問題となると、質・量ともに、本人の
努力次第でどうにでもなるものが多い。
 さしあたり建夫の抱える問題は。真琴に付きまとう男子、その一点だ。
 チャイムが鳴り、授業が始まっているが、優先すべきは男子の問題。建夫
は、黒板や教師の言葉を蔑ろにして、窓の向こうを見やる。
 その一連の行為そのものは、特に普段と変わりはない。しかし、彼の目が
捉えるのは真琴と――それと男子。
 問題への対処法は頭にある。しかし、男子がとっていた歩数メモの意味だけ
がはっきりせず、どうにも靄っとした気分だ。
 授業が頭に耳に、入らない。

 やがて六限目のチャイムが鳴り。HRもあっさりと終わった。
 自教室から、真琴が教室を出るのを見届けた。真琴の後を追っていく男子
に吐き気がした。

 ――校門。――土手。――交差点。いつもの帰り道。
 建夫は、監視を悟られないように、それらしく振舞う事に余念が無い。
 男子は、真琴と歩調を合わせる事に集中しているために、自分が尾行され
ている事に気づかない。

 男子の腹の底を垣間見た建夫にとっては、男子の爽やかなツラさえ嫌悪
の対象となっていた。その容姿で特別に得ている恩恵、温い環境、順風満帆
であろう半生を考えると「ヴぁあ!」発狂しそうになる。
 一見爽やかな青年が、ストーキングしているだなんて誰が思うだろうか。
その上、奇行に走っているなどと。
 そうして、自らの特権を、意識的にしろ無意識にしろ利用している、男子の
やり口が、建夫は許せなかった。
 もちろん、嫉妬も多分に含まれてはいるものの。それでも、出来る限り公平
な正義に拠った思考、もしくは行動だと。建夫は確信している。
 それゆえに――――。

 真琴も男子も、自分が尾行されている事に気づかない。
 真琴は何も知らず家にあがり、男子は慣れた手つきでメモ帳に書き記す。
「1361歩」と。「歩数がどんどん多くなってくるね。ということは真琴ちゃん……」

 ――建夫は時間を止めて。時間を食わないように駆け寄り。――――メモ
帳と万歩計だけを、男子の手から引き抜いた。
 それ以上は何もしない。災いの根を摘むだけだ。「罪を憎んで人を憎まず」
とはよく聞くが、建夫の心境もそれに近い。
 それは単に自己満足か、もしくは時間停止・人外の力への慢心かもしれな
いが。いずれにしろ、建夫は美徳に従い、必要以上に力を乱用しないように
努めた。
 そんな建夫を尻目に、神様は物凄い勢いで男子に向かっていくものだから、
「あっ、しまっ……」
 建夫は自らの迂闊さを後悔した。
 神様が男子の頭をゴチンと殴る。十分に想定できたはずの出来事ではあっ
たが、建夫はそれを予想する事さえ出来なかった。
 20秒。
 神様の暴挙が少し気にかかるが――仕方がない。成るようにしか成らない。
とりあえずは時間が動き出す前に、奪ったメモ帳と万歩計を鞄に仕舞い込む。
 そそくさと元の場所に戻り、30秒が経つのを待った。目立たないように、何気
なく。

「うお、痛ッ?」
 時間が動きだすと同時に、男子は身構え。そして、手元から消えた二点に
対してうろたえ出した。
 建夫はその横を、何も無かったように通り抜けて、家に帰る。
 そして、出迎えた真琴を、時間を止めて抱き締める。股間を強くあてがう。
「もう、大丈夫だよ」

 大きな充足感に。晩御飯を済ませると、真琴を愛でるのもそこそこに、自
室に篭った。
 そこでメモ帳を確認する。相当丁寧に扱われていたらしく、懐に忍ばせて
いた割には、シワや破れ等ほとんど無い。それほど大事なものだから、失く
した時のショックたるや、想像もつかない。
 恐らく、そのショックで、真琴に対する変態的行為の意欲も失うはずだろう、
と建夫は考える。
 さて、メモ帳に掲載されているデータは半年分。
 数値は、(手作業ゆえ多少の雑はあるものの)約一ヶ月周期で上下して
いた。一つの周期で「1300→1350」まで上昇。ピーク(約1350)を経て、次の
周期は再び1300から、となっている。
 過去のデータをまとめると、そんなところだ。その数値が示す事は……。
 結局、建夫は、歩数の周期と生理を関連付けた。(それしか思いつけな
かった)
 恐らく、ピークの時点で生理が起きているはずだ。生理には多少の苦痛
が伴うと聞く。それに股間のムレも加わり、歩調にも直接的な影響が出る
はずだ。
 もしも男子が、それとは違う意図で歩数を計っていたとしても、歩数と生理
に関係があるのは、論理的に見ても間違っていはいないはずだ。

 そう思い至り、建夫は再びメモ帳に目を落とす。本日の数値は「1361」
 その数字が目に飛び込んだ途端、真琴への愛おしさが募って、建夫は
自室から走り出た。
「あの男の子は天才か!」
 リビングへ行くと、真琴は風呂上りの火照った体に、薄いパジャマを着て
いた。
 建夫は時間を止めて、
「真琴ぉ、お前今日生理なのかぁ? うん?」
 などと言いながら真琴の目を覗き込んだ。そのまま口をすぼめて、真琴の
鼻先を吸った。見つめ合いながら、真琴の下着に手を入れて股間を触る。
そして、その手を嗅いだ。
 入浴後のためか、においはよく分からない。
 建夫はしゃがみ、真琴の股間に顔を埋めた。鼻を出来るだけ奥に差し込ん
で、腹の底から呼吸を繰り返した。

 建夫の平和に関して、一先ずの障害は排除した。後門の憂いは今のところ
無い。後は、ひたすら真琴を刺激すればいい。
 神様が傲慢な音をたてて彼女を貪っているが、建夫の眼中には無い。

 建夫の不健全な生活は続く。時間を止めて、欲情に至るまでひたすら待つ
のだ。
 真琴はやがて、時間を止めなくても、見つめるだけで軽く赤面するように
なった。それでもなお、毅然と振る舞い続ける。
 建夫は欲情に持ち込む事が出来ず、日々は過ぎる。

 

 相変わらず、建夫は真琴のクラスを眺めている。
 メモ帳と万歩計を奪った次の日。男子の落ち込んでいる様子が容易く見て
とれた。それを見て、建夫は胸のすくような思いがした。そして、優越感に
浸る。
 男子が創り上げたデータを、建夫が引き継ぐことにした。まるで、あてつけ
るように。
 帰り道、慣れない足の運びで懸命に測る。
「1361」→「1369」
 帰宅後、真琴を抱いて、自室に篭り、メモ帳と時間のスイッチを肴にいつ
までも起きていた。

 二日後。男子はメモ帳を失ったショックを少しずつ払拭しているようだった。
あまつさえ、真琴と談笑する場面さえも見られる。
 測り取った真琴の歩数も
「1369」→「1365」
 イマイチ上手くいっていない様子で。優越感が底をつきはじめた。

 三日後。
「あの野郎―!」
 神様が真琴のクラスを見て絶叫している。そんな神様に、自分の姿を重ね
てみて、建夫は机に突っ伏した。
 修平と真琴の仲は(嫉妬による補正が加わっているものの)睦まじく見え
ないことも無い。
 ふと、時間を止めて彼をどうにかしてしまおうとも考えたが、それはただの
嫉妬であるからに、あまりにもスマートではない。

 半年間使い続けたメモ帳も。身体によく馴染んだ万歩計も。既に自分の手
元に無い。
 しかし、男子は悪い気はしない。授業に身を置きながら、三日前の事を思
い出していた。
 真琴の歩数をメモ帳に控えた途端、それが忽然と消えた事。その瞬間、頬
に喰らった謎の打撃。頬が赤く腫れた。
 近くには誰もおらず、消えるはずなど無いし、叩かれるはずも無い。
 有り得ない出来事ではあるが。しかし、思い返せば思い返すほど、やはり
実際に起きた事なのだ。
 男子はそれら一連の出来事を常識の範囲内で片付ける事が出来ず。人智
を圧倒的に超えた――言ってみれば、神様によるものだと結論付ける。
「こんな姑息で卑怯な手段は止めて、真っ当に正々堂々としろ」
 神様が、自分にそう言っているのだ、と。
 授業中、真琴の後姿をじっと見る。それだけは性分なのでどうしても変えら
れないが。その他は大分変わった。
 真琴と、なんの気後れもせず喋り合える。

 帰り道では、以前よりも遥かに健全的な雰囲気で、真琴の後ろを建夫が行
く。
 川沿いの土手の坂道で、二人の間は大きく。やがて、信号で立ち止まった
折に修平が追いつき。一言二言の後、青信号を修平は一人先に歩いていく。
 そんな光景を見ながら、建夫は真琴の歩調に合わせて歩く。少し重くなる
光景だが、せっせと足を運ぶ。
 自分の行動が正しかったかどうかなんて、考えてもキリが無いと分かって
はいるが。修平の様子と、測り取った数値を見て、一種の疑いを禁じえない。
「1361」→「1369」→「1365」→「1373」
 周期的、あるいは今までの上限数値と比べて、数字がおかしい。一向に測
定に慣れないのだ。と建夫は嘆いた。

 メモ帳と万歩計を手に入れて、建夫と男子の心の持ち様が逆転したように
思われる。
 しかし、建夫にはスイッチが強い心の拠り所となっている。それがあるだ
けで、男子よりもよっぽど恵まれているはずだ。
 建夫は家に帰って、時間を止めた。不安から逃れるように真琴を抱き締め
た。だが満たされる事はない。常習的な行為であるからに、知らず知らずの
うちに慣れてしまったのかもしれない。
 いよいよ、次の段階に入るべきなのだろうが。それにしても事が進展しない。
時間が動きだすと、真琴は赤くなり顔を背けるだけなのだ。身体をあずけて
こない。

 ひょっとすると、根本的に問題があるかもしれない。そもそも真琴は建夫
に僅かな好意も抱いていないのかも。
 もしもそうなら、何をしたところで無駄。もしくは逆効果だ。他の男に欲情
してしまう。
 台所で調理する真琴を見ながら、建夫は考えた。
 だいたいにして、本来なら遊びたい盛りの年頃である。放課後に友達と繰
り出したいと思っているかもしれない。あるいは部活に汗を流したい、と。
 それなのに、毎日夕食――どころか朝食、その他の用事までこなしている
(ひょっとすると、こなさせられている)わけだから、募ったストレスの矛先が、
出不精な兄に向かってもおかしくはない。

 そんな心配に急に襲われて。
「アレなら、夕食の支度なんて放り出せばいいよ」
 堪えきれずに、何の脈絡も無く。夕食時に建夫は言った。
「何なら、朝飯の支度もだな……」
 自虐に近い言葉を並べ立てようとして、真琴に足を踏まれた。
「夕食の支度゛なんて゛って……失礼」
 真琴はそう言いながら、卓上の唐揚を一つ吟味する。
 建夫は、妙に狭い肩身で、夕食に向かう事になる。
「いや、あのな……」
「だいたい私が支度しないとして、ご飯はどうするのさ? お兄ちゃんが
ご飯――」
「いや、作れないね」
 無駄に歯切れの良い即答に、真琴は「ふふん」と上機嫌に鳴らして、
「だったら遠慮なんてしないでいいよ。それよりもお茶頂戴」
 建夫のすぐ傍にあるお茶を指差した。
「で、でもだな。友達と遊びたくならないのか? 周りを見てて、少しでも
羨ましく思ったりするだろう」
 退くに退けない思いで。とりあえず、建夫はお茶を渡した。
「ま、まあ、そりゃそうかも……しれないけど」
 自分から訊いたクセに、それを肯定されると、少し泣きそうになる。
 しかし――
「……か、家事が好きなんだよね」
 真琴は少しぎこちない笑顔で言った。
 ――しかし、少し赤い彼女の顔を見て、思わず噴き出してしまう。そして、
もう一度足を踏まれた。

 振り返ってみると、久しぶりの会話らしい会話だったように思う。
 時間のスイッチを手に入れてからは、めっきりと喋り合う事も減った。特
にこの三日間はそれが顕著だった。

 その日は時間を止めずに過ごした。
「何故時間を止めない?」
 神様が隣で騒ぎ立てていたが、取り立てて相手にせずに、ベッドに潜り込
んだ。
 時間を止めて一方的に触れる気に、その日はならなかったのだ。

 

 翌朝一番、リビングへ向かうと、いつものように真琴が朝食の準備をして
いた。真琴と目が合う。彼女の顔は赤い。
「ホラ! 今止めろ今!」
 彼女の様子を見て、神様が「時間を止めろ」と、建夫を急かす。だが、建夫
は時間を止めない。
 恐らく、真琴は欲情に近い。伏せがちにした瞳に、火照った表情からの呼
吸は少しだけ強くて細い。
 そんな様子に、しかし、建夫は何となくバツの悪さを感じた。オナニー後の
感覚に似ていた。

 時間を止めずにいる程、神様の興奮のボルテージはあがっていった。やが
て、やみくもに腰を振るようになった。
 一方、その姿に、建夫の興奮もしくは性欲は一層削がれていく。
 学校に着き、窓から見える景色。真琴のクラスだ。彼女と男子の仲は昨日よ
りも深まっているように感じられる。しかし――。
「野郎ォ! 野郎ォ!」
 けたたましく吼える神様の隣にいると、随分と冷静でいられた。
 改めて真琴達を見ていると、二人の様子は、何だか男子の一方的な好意に
見えない事もない。

 今朝、男子は学校に来るなり真琴に声をかけた。そして、ガードの脆さに
驚いた。
 昨日まで感じていた(ほんの僅かであるが)よそよそしさなどまるで感じない。
それどころか、心あるいは体まで預けてくるような力無い色気まで感じる。
「こ、これはイケるかもしれない」
 出来るだけ平静を装って接する。自然に真琴に話しかけ、触れ合うが、それ
自体若干の下心に基いた行動だと男子本人は気づかない。

 その日は建夫の心がいつになく落ち着いているだけに、横にいる神様の騒ぎ
ようが、やたらに映えた。
 真琴が動く度に、男子が真琴に接触する度に、あるいは時間を持て余す時
など、神様は頻繁に騒ぎ。その様子を見て、建夫はげんなりするのだった。
「こんな奴と共同作業(真琴弄り)をしていたのか」と。

 やがて下校する頃になると、さすがに疲れたのか飽きたのか、神様はとぼ
とぼと建夫についていくだけになった。
 建夫は土手の坂道を上る。
 夏が訪れつつあるみたいで、西日はいつもよりも高い所で川原に映えていた。
 下校する生徒達はいくつかのグループを作り歩く。その中、建夫は一人で歩く。
 その日、土手に真琴の姿は無かった。男子の姿も無い。
「HRが遅れているのか?」
 少し遠くを見渡してみても、いない。

 そして帰宅。誰もいないリビングに上がり、電気をつけた。そして椅子に座り、
「……寂しいな、おい」
 神様がいる事も忘れて独り言。神様がそれに返す。
「確かにな、小奇麗な部屋に一人(と一神様)じゃ様にならん。ところで、何で
今日は真琴ちゃん遅いんだ?」
 妹を「真琴ちゃん」と馴れ馴れしく呼ばれた事に、多少憤りを感じながらも、
「さあ、HRが長引いてるんじゃないの」
 と、適当に返しておく。そんな事訊かれても分からないのだ。
 多少の暇つぶしにと、建夫はメモ帳をパラパラと開く。

「1361」→「1369」→「1365」→「1373」

 現在の真琴の歩数は、過去のデータと比べてみて数値が大きすぎる。周期
的にもそろそろ落ち着いているはずだ。
 何か原因を建夫は探す。生理以外の要因を。しかし計測ミスの他には、特に
理由が思いつかない。

 結局考えても分からなかったので、建夫は理由を探す事を見限った。その
頃には窓から夕陽が差し込んでいて、夕方の6時だった。
 真琴は未だに帰って来ない。
 じれったい気持ちを抑えようと冷蔵庫に立ち、お茶を一杯汲もうとすると。
「オイオイ、さすがに変だろ?」
 神様がしびれを切らして言った。
 建夫はお茶を冷蔵庫に戻し、
「そうだよな」
 神様の言葉に押されるように、玄関に向かった。
 どう考えてもおかしいのだ。
 もしも遅くなるなら、連絡の一つくらいよこすだろう。連絡も無しに遊び
にふける人ではないはずなのだ。
 建夫は靴を履くと、制服のまま自転車に飛び乗った。
「それに、好きなんだよな、家事が」

 一方、真琴は西日に染まりながら――男子と影を重ねて歩く。

 

 しまったなあ。……お兄ちゃん、心配しているだろうな。
 真琴は夕陽に顔を赤く染めながら、男子と並んで歩く。男子の誘いから抜
け出る機会、それと体力が無く、家路に着く頃にはすっかり夕方だった。
「帰る方向も同じだし。一緒に帰ろう」
 嬉々とした表情で言う男子に対して、真琴はうつむき加減で口を締めた。
土手の坂道を身体に鞭打って上っていく。
 重たい足取りを、真琴は引きずるような感覚で歩いた。風邪をひいてしまっ
たのだ。
 最近、兄の建夫を見る度に、体が熱くなったり鼓動が激しくなったりとヘン
なのだ。それがしばらく続き、体調を崩してしまった。
 建夫に心配をかけまいと、頑なに毅然と振舞う打ちに、悪化させてしまった
のだった。
 真琴の顔が赤いのは、夕陽のためだけではない。
 坂を上るのさえ辛く感じた。

「これは間違いなく本気でイケる」
 男子はそんな事を思いながら、真琴と並んで川原沿いの土手を上っていく。
 先程の真琴の仕草。恥ずかしそうにして俯いた仕草は、照れ隠しだろう。
恐らく脈は有る。
 西日が水面に輝いて、シチュエーションにも問題は無い。
「あ、あの、真琴ちゃん」
 呼びかけながら、男子は真琴の方を向いた。
 真琴は坂道の途中で、立ち止まったまま動かない。
 男子は怪訝に思い、真琴の袖を少しだけ掴んで引いた。真琴は力なくそれ
に応えて、男子に体を傾けた。彼は咄嗟にその体を支えた。
 真琴の小さな顔が、男子の目の前だ。かなり近い距離で、体温を感じる。
半分だけ開かれた彼女の瞳は濡れっぽくて、睫毛越しに男子を見ていた。
「いけッ、今いけッ!」
 そして男子は、真琴の双肩をしっかりと掴み。押し倒すように唇をよせて
いった。背景の夕陽が、重なり合おうとするシルエットを克明に映す。
 ふいに真琴の体から力が抜け。
「完全にイクッ!」
 男子の唇は俄然勢いに乗って――。

「こんのォ、クソガキがーッ!!」
 土手の下方に真琴と男子の姿を視認するなり、建夫は絶叫した。今にも接
吻を交わそうかという状況だったのだ。建夫はなりふり構わずスイッチを押
して時間を止めた。
 そして、下り坂をノンブレーキで駆け下りた。7秒分の距離を一気に詰め
て、そのまま男子に激突した。男子の体は少しだけ、土手の方へずれた。
「オラオラオラオラ」
 神様が男子に追い討ちをかける。よっぽど気に食わなかったのだろう。
 その間、建夫は、真琴の肩を抑え込む指の一本一本を丁寧にはがしていっ
た。そして、25秒が経った頃。建夫は、押し倒されそうな真琴の体勢を直して
やるのだ。

 気づくと、修平は土手を転がり落ちていた。
 やがて、川原に叩きつけられて。頬にはかつての打撃を感じた。そして、
傍らにはかつてのメモ帳と万歩計があった。

「……お、降りよっか私」
 真琴は、建夫が漕ぐ自転車の後ろに乗っている。
「別に気にしなくていいよ」
 二人乗りで、坂道を上っていく。
「いや、あの……恥ずかしい」
 強烈な西日に当てられて。また坂道での二人乗りであるから、建夫は汗を
噴き出す。息も上がり、心臓が胸を締め付けた。
 それでも、建夫は地面に足をつけようとせず。半ば意固地になって二人乗
りを続けた。
 体力はあまり残されていないが、坂道はもう終わる。それに、メモ帳と万
歩計分軽くなっている。問題は無い。

「なあ、あれで良かったのか?
 坂道の終わりに差し掛かった頃、建夫は一連の出来事を思い返していた。
同時に懸念、あるいは雑念が顔を出す。
 本当にこれで良かったのか。メモ帳……。万歩計……。グフフ、真琴ちゃん
グフフ。今すぐ時間を――。
 神様がそれに便乗するかのように、建夫を煽る。「時間を止めてしまえ」
と耳元で囁く。
 坂が終わり赤信号で立ち止まると、軽くなった胸に再び、やましい思考が
芽生え始めた。
 しかし、真琴はそんな事など知らず「へへへ」と上機嫌に笑って、言った。
「お兄ちゃんがいる間は、そんなのできそうにないよ」

 不意に、建夫は背中に重みを感じた。さらさらした質感が伝わり、次いで
女の子のにおいが。そして、真琴の体温を感じた。
 真琴が頭を、身体を、建夫の背中にもたれかけたのだ。

 建夫はその時、全てを悟った気がした。五里霧が一息に晴れ渡ったような
感覚。それと同時に、自分の煩悩を一切許せない正義感と罪悪感が身体を貫
いた。
 時間を止めた隙に欲情させる――あながち間違った案ではなかったのだ。
 しかし真琴に、それに応えるだけの経験もしくは体験が無かったのだ。つ
まり、受けた刺激を性欲へと喚起させるには幼すぎたのだ。恐らく、単純な
慕情のみに換えていたのだ。
 真琴の行動、温もりを感じてそう思った。
 そして、建夫は今までの自分の行動に吐き気がした。無垢な正直さを欺い
て、延々と卑怯にも。あまつさえ第三者(神様)にさえも真琴の体を許して
いたのだ。

「時間を止めろ!」
 神様の叫びと同時に、建夫は時間を止めた。
 そして、真琴にかぶりつく神様を引き剥がし。道端に落ちていた拳大の石
で、実体化している神様の脳天を打った。
「へべれけ! へべれけ!」
 と神様は言った。

 恐らく、神様は建夫を許さないだろう。和解など二度と出来ない。もしも
時間を止めれば、実体化した神様に建夫は殺されてしまう。
 だがそれでいい。時間は二度と止めない。
 そんな考えと、自戒をこめて、神様へ一撃だ。

 信号が変わり、建夫は自転車を進める。いつになく清々しい気持ちで我が
家へ向かう。時間を止めないで過ごす゛これから゛を考えたりしながら。
 ちなみに、真琴は高熱でダウンしている。意識がほとんど無いので、建夫に
もたれかかっているのだ。建夫の気持ちなど露も知らないで。

              糸冬

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