かつを その12(39停止目)

 

何かを成す自分を思い描き、意志をもって行動する。
特に修練をせずとも、ただそれだけで物事を習得したり技術が上達したりすることがある。
例えば、バスケのフリースロー。あるいは、野球のバッティング。
いわゆるイメージトレーニングがそれにあたるのかもしれない。

唐突な話だが、俺の場合はそれが時間停止だった。

話は変わるが、俺は常日頃から、平穏に生きたいと思っている。
何のトラブルに巻き込まれることもなく、過ごすのが最高の生き方だ。

しかし、トラブルというものは、自らに何の落ち度がなくともやってくることがある。
いや、ひょっとすると自分の存在自体が落ち度なのかもしれないが。
だがそう考えるとあまりにも不平等だ。
そう考えると嫌になるのでで、俺は無理やりに考えを変えるのだ。

俺は基本的に打たれ弱い。自分でもそれを自覚しているほどだ。
なので、一度そうこと――自分の存在が落ち度なのではないか――を考えると、
立ち直れないほどに、うちひしがれてしまう。

だから、俺はできるだけ平穏な生活を望む。
もしくはそういった、自分を打ちのめす思考を消すために、正確にいうと塗り潰すために、頭をひねる。
おとといの晩飯だとか、某掲示板でみつけたおもしろいスレ、書き込みを思い出したり、
好きな子と自分が性交する姿を想像したり。
そういったものでネガ思考を塗り固める。
若干多目の独白。そして飄々とした態度。それも平穏を保つための手段だ。
しかし、それでも我慢できない時が――少なからず来る。

――来た。休憩が。
しかもよりによって女と一緒。二人きり。
はっきり言って嫌である。
別に気まずいからではない。――不思議なもので、相手が自分のことを嫌っていることが分かりきってる時は、
どんなに沈黙が続こうが、嫌な空気が流れようが全く気まずくないのだ。

もっとも、この女と一緒の休憩の時は、沈黙も嫌な空気も感じる必要はないのだが。

「というわけで、喪くんね。もうちょっと愛想よくした方がいいよ」
椅子に座るなり、彼女の喋り出しの言葉がコレである。
文法的におかしい。
何故最初に接続詞が、よりによって「というわけで」が出てくるのだろうか。
「それに、顔が暗い」
俺の特徴、゛感情を表に出さない゛は俺という人格を作り出す一つの立派な要因である。
それなのに……。
この女はあきらかに俺を否定しにかかっている。
それに、もし仮に仕事――接客業において、俺のその特徴に落ち度があるとすれば、
それは俺を雇った店長に責任があるのであって、責められるべきは俺ではない。

他にも
「声が出てない」だとか、
「陳列の方法が間違ってた」だとか、
「仕事が遅い」だとか。
他にもイロイロ。

次から次へと、叱責の言葉が飛ぶ。
声が出ないのも、仕事が遅いのも、それを見極められなかった店長と、
俺を育てられなかった先輩方のせい。――独白も無理矢理感を増していくほどに、彼女の指摘は的確だ。
確かに的確である。しかし、そこには一切の情が感じられない。
「声が出てない。……けど頑張ってね」
だとか、
「陳列の方法が間違ってた。……だから、なおしておいたよ」
だとか、
「仕事が遅い。……から、後で二人っきりで教えてあげるね」
だとかいう。
そういった類の優しさが全く感じられない。
というわけで、俺はこの女の叱責を適当に受け流しながら、水を飲んでいた。
愛の無い叱責なんて糞以下だ、この雌豚が。

ちなみに俺は正社員ではなくパート従業員だから、いくら頑張っても報酬は少ない。
かといって職に就こうにも、就職難+俺の無能力の挟み撃ちである。
それに最近では、
起きる→働く→寝る→起きる
俺の生活はこれだけなのだ。ロボットなのだ。

そんな俺の少ない自由時間を、説教で台無しにする気なのかこの女は。
言葉の暴力でずたずたにする気なのか。

というわけで、健康で゛文化的゛な生活が保障されているこの国で、
俺は日々不満と疲労を蓄積させ、身を削り続ける。
そして、その日はバイオリズムの波が最低(女でいう生理期みたいなもの)である。
だから俺は……。

次の瞬間、二つの椅子が音をたてて床に転がった。俺の椅子と――彼女の椅子。
その音が止むと、微かな呼吸音が聞こえた。
俺と床に挟まれた彼女はその呼吸音を一旦止めて、言葉を出した。
「ちょっと、何してるの。はなして」
俺は彼女の腕を掴んだまま、彼女を見続けた。

『ちょっと、何してるの。はなして』
それだけの言葉である。しかし、それだけでも彼女の口は多彩に、活き活きと動く。
うるんだ唇の表面を蛍光灯の光が流れるのを見ると、不覚にも勃起してしまった。
彼女の腰に密着させておいた俺のペニスが、彼女の体に喰い込むと、
それに合わせて、唇の上を再び光が流れた。

「ちょっとはなしてよ。ねえ」
今の自分の状況を分かってないらしい。
「……早くはなして」
残念ながら人にものを頼む態度ではない。
もっとも、横になりながら人にものを頼む奴はいないだろうが。
「もう、人を呼んじゃ――」
あまりにも唇を動かすものだから、つい舌をねじこんでしまった。
彼女は、んーんー、と声にならない声を俺の口に流し込んでくる。
お返しに唾を流し込んだ。

相変わらず彼女は唸りながら嫌がっている。
それは単に、男を興奮させるだけだと知らないのだろうか。

――と、あまりにも衝動的な行動だったから、時間を止めるのを忘れてしまった。
が、それはそれで良かったのかも知れない。
時間を連続して止めるのは、体に相当負担がかかる。
だから、人を呼ばれたときのために、その力をとっておいたのは正解だったかもしれない。
それに、動く彼女を最初から最後まで見ることが出来る。
よく考えると、時間を止めなかったのは正解だったようだ。

……なんて妄想にも力が入る。

妄想程度しか娯楽がない生活、何の変化もない生活。
今の自分は、決して充実してるとはいえないかもしれない。
それを「平穏」という言葉でごまかしているだけかもしれない。
「平穏を好む」
これだって、要は恐れているだけかもしれない。
何かのきっかけで、自分の無味無臭の生活を痛感するのを。

疲れていると、そんな考えまで湧き出てくるから困る。
さてと、飯でも買いに行こう。

「――でもね」
今までガミガミ言ってた彼女が、急にトーンを変えたのを聞き逃さなかった。
聞き逃せるわけがなかった。
妙に身構えてしまう。
「確かに喪くん仕事できないけどね……」
なんだオイ。
なんなんだオイ。
その思わせぶりな態度は。
「……でも、それはそれでいいかな〜。なんて」
いいから早く続きを言えこの雌犬。
「……だからね」
その時、彼女の唇の表面を光が流れるのを見た。
と同時に胸がやけに高鳴り、口が渇く。
彼女に飛び掛ろうとする自分を抑えるのに精一杯で、気がつくと汗が流れるわ。
いくら貴女にそんなこと言われてもダメダメ。
一応こちとらモテない男性で通ってますし、それは一種のアイデンティティなんだから。
いや、でも貴女がどうしてもと言うのなら、体のひとつくらいは――。
「――わたしのご飯も買ってきて」

――時間を止めた。

間髪いれず彼女の股ぐらに飛び込もう――とする自分を抑えて深呼吸。
ほてりきった感情をゆっくり冷まそう。
彼女の存在なんて忘れて、屈伸でもしてみよう。
目を閉じて神経を集中させよう。そして、自分の姿を思い描いてみるのもいい。
心の平穏を取り呼び戻したら、安心できるものに触れてみよう。
普段の自分を取り戻したら、もう一度深呼吸。

30秒、それは多分――短い時間。
しかし、落ち着きを取り戻すには充分な時間。

何も無い――本当に何も無い部屋に入れられる想像をしてみてほしい。
そこでの30秒は充分な時間ではないだろうか。
でも、そんな部屋に長時間居たままだと、すっかり気力を失ってしまうだろう。
何かを成そうとする意志、生きようとする気力。
そんなものを一切失ってしまって、ただ存在するだけになってしまわないだろうか。
もしくは自分を失って、好き放題するのではないだろうか。
そして、そんな状態で再び表に放り出されても、きっと何をする気も起きない。
もう、それまで過ごしてきたようにはできないだろう。

30秒、それは短くて充分な時間なのだ。

俺は弁当屋さんへと向かう。
少し暗くなってきた外は少しぬるくて、静かだ。
その静けさが余計に先程のことを思い出させる。
先程の心の動揺があったからこそ、今の静けさ・平穏が一層映える。
それは普段と比べて、格段に気持ちの良い平穏。
そして、それこそが本当の平穏なのかもしれない。

平穏が続く平穏。
それは何も無い空間・部屋なのかもしれない。
僕も――彼女も、そんな部屋を飾る一つの要因。

当然、俺は彼女に快く思われていない。――はず。
そして、俺は彼女から言葉の暴力をうけるし、彼女は彼女で僕に言葉の暴力を振るう。
僕たちはそれで、部屋を飾っているのだろう。
何度も言うが、彼女は僕を快く思っていないはずだし、
僕も、弁当を買いに行く今でさえ、そんな彼女のことを面倒くさく思ったりしている。
でも彼女の存在は、それはそれで平穏を維持するためのエッセンスなのだろう。

俺は今のところ時間停止を、自らの平穏を維持するためにしか使ってないし、
それ以外に使う予定もつもりもない――

そんなことを考えながら、やがて僕は弁当を買い、休憩所へ戻る。
いつも買う「日替わり弁当」には昨日と違うおかず。その中にいつも通りの卵焼きが入っていた。

ただ時間停止の際、彼女の尻を触ったりしたのは――内緒の話。

                          おわり

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