かつを その11(38停止目)

 

今私の隣には犬がいる。名前はペレ。
そこで、そのペレに骨をやってみる。
すると、嬉しそうにかぶりついた。
次は、ぬいぐるみをあげてみよう。
大喜びでぬいぐるみをくわえ、それをぶんぶん振り回す。

ペレの反対側、つまりペレを右とすると、私の左に猫がいる。名前はタマ。
ねこじゃらしをタマにすりつけてみる。
タマがみせるおどけた仕草は、感動的なほど可愛らしい。
小さなボールをタマの前においてみると、
タマはそれを不器用にころがしては追いかけていく。どこまでも。

いずれも本当に楽しそうにみえたので、何が楽しいのか、試してみる。

さてと、骨を自分の前に置く。
そして、咥え――れないなコレは、さすがに。放置。
ぬいいぐるみで遊んでみよう。
成人した男児がこれを弄ぶのはさすがに辛い。
大人の人形ならまだしも、目の前にある女児用のぬいぐるみで遊ぶのは辛い。
(そんなの持ってる時点で辛い、というのは早合点ではないだろうか。)
……ねこじゃらしはもういいだろう。
さて、猫用ボールである。
野球サッカーなんでもござれ。ただ、猫のようにこれで遊ぶのはあまりよろしくない。
実際にやってみる。
いいようの無い脱力感。

普通の人ならば、犬や猫のこのような行為をしたところで、
犬や猫のように夢中になれることはまずないし、
おそらく彼ら――犬猫が感じてるような興奮や楽しさを感じることもできないだろう。
むしろ不快感さえおぼえる。少なくとも私は。

――人間と他の動物で決定的に違っている点は何だろうか?
言葉の使用という人がいれば、または道具の使用であるとも。
確かにそれらは間違ってはないし、割りとしっくりくる答えである。
しかし、それ以上にしっくりくる答えがコレ↓
「人は己が死ぬことを知ってしまった唯一の動物である。それが他の動物との大きな違い。」

ま、こういうわけ↑で人は今までの進化をとげてきたわけらしいです。
死の恐怖から逃れるために宗教に頼る。(この言い方は違うかもしれないけども)
死そのものから逃れるために、医療技術から、はては錬金術まで。
その末、良いも悪いも含めて文明は発展し、人と他の動物を分けることになったらしいです。
死ぬまでの限りある時間を、己や文明の発展のために捧げようという考えもあったかもしれません。

要するに、私が犬や猫の真似をしても不快感しか得られないのは、
「限られた時間をこんなことに使っていられるか」という損得勘定のせいである。
要するに無意識のモッタイナイ精神が、頭をたれるからだと思うのだ。
事実、私は人よりも死に対する――というよりむしろ時間に対するひっ迫間が強いと思う。
生活をかけた職探し。
それは、現在の自分はもちろん、未来の自分をも左右してしまう一大事である。

「まずは職活だろゴルァ!」
何をするにも、その念が頭からこびりついて離れない。
他の人もカタチはどうあれ、同じような時間に対する強迫観念のようなものがあると思うのだ。
それゆえに、犬猫のように没頭することができない。

というわけで、時間を止める装置をつくってみた。(つくり方は割愛)
さっそく時間を止めてみる。
時間に追われる現代人。それは無職とて同じである。
しかしその装置があれば、時間に追われる心配はなく、つまり何事も無駄にはなりえないはずである。
――これで犬猫の気持ちが味わえるんではないか。前人未到の高みへ上り詰めることができるのでは。
呼吸をはずませ、それ以上に体をはずませる。
目の前に魅力的に配置された、骨。ぬいぐるみ。ねこじゃらし。ボール。
それらのどれでもいい。それらのどれもが未知なる世界への扉であるはずなのだ。

――――――――――――――――――――

人間とは不思議なもので、骨、ぬいぐるみ、ねこじゃらし、猫用ボールをいくら弄んでも全くおもしろくない。
完全な時間の浪費であり、自らの成長のさまたげとなるわけで、不快極まりないわけである。

しかし、以上のような妄想を膨らましている今現在。その現在には確実に充実した自分がいて、
時間を止めて〜という、あり得ない課題に真正面から取り組んでいるのである。
それが完全な時間の浪費であるにも関わらず。

――人間はとりわけて興味深い動物である。
時間云々をあれこれ考えるアホな動物なんていない。
時間どうこう言ったって、地球は回り続けているわけだし、一年経てば太陽の周りを一周する。

時間を止めれたら何々するだとかそんなこと考えても、文明が発展するわけでもないが、
一見時間の浪費であることに、惜しみなく真っ向から組み合う人間というのは、
ねこじゃらしにじゃれつく猫のようで、中々に素敵である。――と思ったりする。

                埋めがてらにオナニー完了

inserted by FC2 system