カキフライ(39停止目)

 

 超能力者だとか錬金術師だとか妖術使いだとか天使だとか悪魔だとかその他の類を信じた事は今まで一
度だって無かった。どんな高度な手品にだって種はあるし、幽霊や宇宙人は全て合成写真。小学校に上が
る前からサンタクロースの中身には父親が入ってると知っていたし、怪談の背景には常に自然の驚異があ
ると考えていた。人が死ねば生き返ることはないし、生き返ったとしてもそれは初めから助かるようにな
っていたに過ぎない。運命論者でこそないが、人はそれぞれ生まれつき天井みたいなものを持っていて、
大人になると背が伸びてそれに気付く。何もせずに一生を楽に暮らす奴も居れば、努力を積み重ねてもま
るで報われない奴も居る。それが俺の目の前にある現実で、日常の風景だった。そこには伝説の勇者も居
なければ、世界を征服しようと企む魔王もいないし、それ以前に世界を征服することで利益が得られるよ
うに世界は出来ていなかった。経験値をいくらためてもレベルは上がらない。しかし、現代科学は発達し
た背景には、理想とは程遠い現実があったお陰であり、それで良かったのかもしれない。もし、神様がい
て対話出来るとするならば、俺は人間をとても弱く作ったのは間違いなく正解だったと、褒め称えるだろ
う。
 だが、俺が非現実性に憧れた事が無いと言えば、嘘になるかもしれない。何処か自分の知らない世界が
あるとしたら見てみたいし、空を自由自在に羽ばたいて見たいし、海中を際限なく泳いで見たいし、幻の
生き物がいるならば飼ってみたい。これらは誰だって生涯に一度は夢を見ることで、成長する過程で現実
との折り合いをつけていくものだ。中にはそれが出来ずに眠り続ける奴だっているだろうが、それは俺に
は関係の無い話で、少なくとも俺は諦めに近い感情を持って断っていた。
 今日まではそうであったと思っていた──。

 俺がバイトを終えて帰宅しようとしていると、上空が裂けた。そうとしか思えない轟音が鳴り響いて猛
烈な衝撃波に軸足を舞い上げられた俺は歩道に叩きつけられた。当然、俺だけではない。周囲を歩いてい
た人々は、まるで重力を失ったかのように順々に叩きつけられていく。きっと雲の上からはマスゲームの
予行練習にすら思えるだろう。突然の出来事に声にならぬ悲鳴が上がった。俺が察知出来る僅かな範囲で
すら何が起こったのか分からず、不可解な出来事に運転を誤って起こった事故も数え切れない。
 最初に天空に聳え立つビル群の影を指差したのは誰であったか。最初に月に降り立った人間の名は有名
だが、二人目を知っている人がどれだけいようか。しかし、俺の関心ごとも、これだけの目撃者がいる中
では無意味なのかもしれない。高度は数十メートル程という曖昧な目測ではあるが、何にしても蛇行した
軌跡を虚空に描きながら恐怖と悪意を撒き散らしているのは爬虫類に体長の何倍もある巨大な翼を付けた
様な生物だった。もし、ここがファンタジー小説の世界ならば、あれは紛れも無いドラゴンだとかワイバ
ーンだとか……つまり、竜と呼ばれる生物だろう。
 普段、現実の鳥だとか架空の竜を見慣れている自分にとっては少々、巨大すぎる翼に思えたが、物理法
則から考えたら限界なのかもしれない。口から噴出してはビルの影を照らしている火が無かったのは残念
だが、それは死にたがりの考えることだろうか。羽ばたく度にビルの壁面の窓が揺れている様に見受けら
れ、幾人かの高層ビルの住人達が怯えていた。
 街に齎された脅威を知った人々は、車捨てたり、卒倒したり、震えながら逃げたり、携帯で写真を撮っ
たり、忙しいことだったが、この俺は立ち尽くしていた。怖くなかったというわけじゃない。全身は震え
て下着は汗でぐっしょり濡れていた。握っていたキーホルダーは潰れて変形していたし、急激に疲労した
ように思えた。しかし、それ以上に、目の前に舞い降りた希望から一瞬たりとも目が離せなかった。あれ
はきっと俺に別の世界を見せてくれるための扉だと、その時なら一片の恥ずかしさも無く断言できた。

 巨大な、といっても想像していたよりもずっと小柄な竜は数度旋回をすると、滑空しながら徐々に高度
を落としてきた。「何処に?」と、最初は思ったが、その疑問が「誰を?」に変わるのにそう時間はかか
らなかった。
 竜はある程度の低空で空気の粘性を不快そうに味わいながら逃げ惑う大衆を舐めるような視線で見回し
て、その儀式のようなものはあっという間に俺の順になった。半径数百メートル以内からは殆どの人々が
逃げおおせて今や自分以外いないのだから、ある意味当たり前だったのかもしれない。俺と目が合うと竜
の頬が僅かに緩んで笑ったかのように思えた。丁度、バスケットボールを握力だけで持ち上げようとする
ように鋭い爪を持った手が閉じられゆっくりと開かれた。前方から飛来するあれを前にしても、まだ俺は
興味と恐怖で動くことが出来なかった。あと十メートル、五メートル、三メートル……。 気付いたのは
後々になってからだが、走馬灯が一切無かったのは不思議だった。俺には思い出すような重要性のある過
去がないのか、死ぬとは微塵も思ってなかったせいなのか。
 ともかく今にも竜の翼の端についた手が俺の目が認識出来ない範囲まで伸ばされた時、ビデオの一時停
止をしたみたいに、不自然なまでに鮮明に竜の姿が感じられた。発達して硬そうな肩の筋肉。何で出来て
いるのか想像もつかない鱗。目を精一杯端に寄せて少しだけ見えるざらざらと研がれた爪。だが、どの要
素も俺に死を予感させるには値しなかった。俺の興奮の熱が竜の押し付ける寒気を上塗りしていた。
 次の瞬間、竜の体は突風と共に俺に伸ばした右手と共に右前方、つまり俺の左後方に吹き飛んだ。ガー
ドレールに突っ込んだ竜の左手は引きちぎれて気持ちの悪い赤色の噴水を上げ、欠片もまだびちびちとの
た打ち回っている。無残に拉げたガードレールはその役目を終えて半月上に凹み、根元のアスファルトが
捲れ上がっていた。遅れて聞こえてきたビルの間を飛び交う砲撃音は、竜のこの世のものとは思えない咆
哮によって掻き消された。竜がその巨体を起こそうとすると、再び強烈な衝撃によって転がっていく。肉
をまな板に叩きつけたような気色の悪い音がした。続けて、三発、四発、五発……確実に竜であったもの
は肉の塊に近付きつつある。いや、既にそうであるのかもしれない。徐々に着弾との時間差が縮んでいく
砲撃音が主の接近を告げていた。

 俺は漬物石を持ち上げるように両足に言う事を聞かせて振り向くと、そこには一メートル以上もある砲
身を持つ狙撃銃を構えながら接近してくる人間の姿があった。ガスマスク、ヘルメット、プロテクター、
ボディアーマー、ニーパット、ガントレット、その他全身に帯びられた装備で何十キロあるだろうか。 
 しかし、それをまるで苦とする様子は無く、あれは走りながら撃っていた。あれは銃口から吹かれたガ
スを潜り、宙を舞う薬莢が地につく前に引き金を引いた。全身の防具に黒い塗装がされており、死神の服
装がその時代に合わせたものになるのだとしたら、きっとあれが現代の死神の服装だろう。しかし、煌く
太陽光の中で、アイレンズから覗けた目には確実に人間の輝きがあった。
 あれとの距離が数メートルに近付くと、俺は全身の勇気を掻き集めた。
 「ありゃ何だ?」
 他に聞きたい事は山ほどあったが、重くなった口ではこの短文が限界であった。
 「見た通り、有名なドラゴンです。今もう死にますが」
 人ではあるが、人と呼ぶには余りに冷たげな、魔人でも言うべきだろうか。それは答えた。ガスマスク
の隙間で篭った声と肉体のラインを隠す厚い防護服が性の判別を困難なものにした。俺が地面に転がる肉
塊を見ていると、魔人はよく狙って引き金を引いた。どれだけの鉄量を叩き込まれたのか分からないが、
見るも無残な姿になって原型を留めていない。胴体の風穴から向こう側の花壇が見えた。貫通した弾が対
面のビルの壁面を粉々に粉砕している。どくどくと流れ出た血がタイル状の地面の隙間を流れていく。俺
は酷く鉄の臭いがして思わず顔を背けた。一方で魔人は平然と弾倉を取り替えている。
 「怪我は無いですか」
 魔人が吐き出すような声で俺に向かって聞いた。
 「お前は何だ?」
 俺は質問には答えずに疑問を投げかけた。口にした後に「誰だ?」であった方が適切であったと、魔人
が解答するまでの数秒間後悔した。
 「彼方、殺されますよ」と、魔人が言った。「彼方を殺そうとしている人達がいます」
 「お前か?」
 「違います、寧ろ逆です」

 魔人はそう言うと狙撃銃を背負って股に括り付けていたショットガンを抜いた。胸に収められた十番ゲ
ージのショットシェルを取り出すと装填、銃口を竜の遺体に向けて放った。着弾と同時に燃え盛った。煙
が上がり、しばらくすると肉の焼ける香ばしい臭いがした。
 「彼方を守りに着ました。先手は取られましたが、少なくとも今は殺されてませんよね」
 「信用できないな、俺は一般人だし、殺されるような覚えはない」
 「彼方を襲おうとした竜も幻覚だと?」
 「まるでターミネーターだ……違うのは敵が人間じゃないってだけ」
 「ターミネーターだって竜ほどではなくとも人間じゃないでしょう?」
 魔人はケラケラ笑いながら排莢をすると、股に銃を戻した。ホルスターの革の擦れる音とパチンと金具
の弾ける音が、思考を巡らしている俺の脳内に残響した。
 「兎も角、ここでは目立つ。警察も来たら面倒なことになるでしょう」
 「お前は、見つかったら面倒だろうな。ここは日本だってのに、銃を持っているんだから」
 魔人は呆れたように、表情が見えないからそう感じただけだが、両手を広げて周囲を見渡した。広がる
事故車両、炎上する肉塊、拉げたガードレール、無数の弾痕、飛び散った血液、散乱したガラス片、誰も
いない道路に立ち尽くす二人。
 「警察なんかに行ったら、彼方は二時間と経たずバラバラにされますよ」
 「……それで、何処に行くんだ」
 「近くに私の隠れ家があるので、一先ず其処へ」
 衝撃的な出会いだったが、不思議と恐怖は消えていた。俺は目の前に現れた竜が扉だと感じたが、する
と魔人はそれを開くための鍵といったところだろうか。振り返りながら恐ろしく速く走る奴の黒い背中を
見つめながら、そんなことを考えていた。振り返ると、立ち上がる煙が空に解けるのがよく見えた。
 十分も走ると俺はへとへとで、シャトルランテストを終えた後のように両足が笑っていた。駅から離れ
ているせいか周囲に人気は無く、入り組んだビル群の喧騒とは無縁の土地であった。こんな場所があった
とは、子供の頃のように散策をしなかった自分には道の領域であった。
 周囲の田舎道とは不釣合いな高層マンションのエレベーターに乗ると、七階を表示して止まった。まる
で人気はなく、一番奥の通路まで進むと、取っ手のない扉を前にして止まった。今、俺は魔人を挟んで扉
と一直線に向き合っていた。数十秒、いや数分たったかもしれない長い沈黙が続く。俺は鍵を取り出す様
子もないフリーズした魔人に背後から話しかけた。
 「どうしたんだ?」
 魔人は扉側を向いたまま、振り返らずに答えた。
 「悪いんですが、ここで死んでください。時魔法使いさん」
 魔人が低く屈むと同時に扉が勢い良く開かれた。俺は廊下の向こう側に見えるものが重機関銃であると
すぐに気づいた。人を撃つには余りに大きな銃があって、その照準はこの俺自身に合わせられていたのだった。

 廊下中に射撃音が響き終えるまで、俺は目の前で何が起こったのか一切理解出来なかった。
目を開けると、いつの間にか俺は態勢を崩して廊下に倒れこんでおり、反対に魔人は立ち上がって俺の方を向いていた。交差する視線が寸前に欠落した出来事を徐々に取り戻させてきた。
 俺は声にならない悲鳴を上げて潰れた蛙のように後退りをした。脳内に叩きつけられた凝縮された情報を全力で解凍しながら、俺は魔人に向かって言った。
 「どういうつもりだ?!」
 怒鳴って威嚇するつもりであったが、体がそうであるように、声帯も同様に弱弱しいものであった。それを察したのか、
魔人はしゃがみ込み目線を近づけると、本人には精一杯の優しい声であろうが、機械合成をしたような無機質な声で言った。
 「すみません、面倒事を省きたかったもので……でも、これで一般人としての彼方は既に死んだでしょう?それに、私の読みが当たりって事も判明しましたしね」
 「……何の話だ?」
 「お気付きでない……?」
 魔人はそう言うと、立ち上がってさっき俺の居た辺りを指差した。その直線上の空間には、まるで画面を停止させて固定したかのように親指程の大きさの何かが浮遊していた。
 「これ何だと思います?」と、魔人が俺を見下ろして聞いた。「これ、重機関銃の弾ですよ」
 俺は起き上がると、魔人の横に立ち上がると、空間に固定された弾をまじまじと見た。
 「これ、どうなってるんだ?」
 まだ身体の震えが止まらずに、声も心も同様であったが、少なくとも思考だけは正常であった。そこには、こんなものはありえないと必死に否定する自分と、
ありえないなんてありえないのかもしれないと目の前の現実を徐々に受け入れつつある自分が居た。
 「触らない方が良いですよ、それに射線上に居ない方が良い。彼方の力がどの程度か未知数ですが、いつ力が切れるかもわからない」
 「俺の力?」
 「はい」と、魔人は言った。「一先ず部屋に入りましょう。お茶ぐらいならあったと思います」
 無線機のような装置が括り付けられ何百発もの弾を垂らした重機関銃が中央に陣取った廊下を曲がると、とても一室とは思えない広さの部屋に出た。蜘蛛の巣のように入り組んだ廊下には階段があったり、
無数の扉があったり、どう見ても隣と繋がっているような変な構造をしていた。壁の所々に無数の弾痕やら妙な着色料が付着しているのが気になった。
 「驚きました?」と、魔人が笑った。「実はこの高層マンション、四階以上は全部部屋が繋がってるんですよね」 
 入れ子状になった奇妙な部屋を抜けて室内の階段を上がると、八階と九階全体を一室にしたであろう巨大な空間に出た。マンションの外から見える窓とは別の鉄格子が通された窓が全面に張り巡らされ、
壁には一面鏡が組まれていた。人を自動的に察知する装置が付いているのか、何をする事もなく照明がぱっとついた。所々に椅子や机が置かれているが、
生活観を感じさせるようなものではなく、まるで展示されているようであった。当然のことだが、天井を見上げると普通の二倍以上はある。
 「それで」と、俺が言った。「全部話してくれ、起こっている何もかも」

 魔人はしばらく沈黙して部屋の隅にまで歩いて行った。突然、床を思い切りどんと踏みつけると壁が開いて中から巨大な箱が出てきた。魔人は箱の蓋を開けて、
緑色の缶を取り出すと、俺に投げて寄越した。俺は予想外の冷たさに思わず「ひゃっ」と、悲鳴を上げた。
 「それ、緑茶です」
 「いいから本題を──」
 「勿論です」と、魔人が焦る俺に口を挟んだ。
 「先程の浮遊した弾丸は見てくれましたよね?あれ、やったのは彼方なんですよ」
 「は?」
 「彼方は弾を受け止めて空中に浮かせました」
 「信じられない」
 俺は思わず床に膝を付いた。どうしてこの俺がそんなことを出来ようか。
 「単刀直入に言います。私は彼方が時間に関連した魔法使いだと考えています」
 「魔法使い?実在して、それを信じろというのか?」
 「突然、急停止した弾丸や街で襲い掛かった竜は実在したのに、彼方はまだ魔法使いが実在しないと言い切れますか?」
 俺はまるで他人を見ているような気分だった。だが、そこに俺はいて、様子を察している魔人は歩きながら言った。ガスマスクのフィルターを外して缶にストローを指して飲んでいるのが何とも面白かった。
ラベルを見ると百パーセント濃縮青汁と書かれている。こんな非現実性を叩きつけられながら、そんなところに注目して何処か余裕のある自分が、逆に自分に余裕が無いからなのか、少々笑えた。
 「物理法則を無視できる人々を、私は魔法使いと呼んでいます。それらの人間との絶対的な差異は、魔法、魔術、妖術、幻術、呪術等を使うことです。私の考えでは、神、天使、悪魔、妖怪、吸血鬼、狼男、なんかも同じ穴の狢だと思っています。そして──」
 「信じる」と、俺が口を挟んだ。俺は立ち上がって椅子に座り、缶を開けると一気に飲み干してむせてしまった。「魔法使いが実在して、俺が時を操る魔法使いだと言うのが事実だと信じるとして、それがどう俺が命を狙われることに繋がるんだ?」
 「ちょっと違うんです」と、魔人は言って空になった缶を机に置いた。「彼方が命を狙われているという事が、彼方は時を操る魔法使いだという事実に繋がっているんです」
 二人の間をしばしの沈黙が包んだ。それを破ったのは俺の顔色を伺っていた魔人であった。
 「魔法使いにはそれぞれ固有の能力が存在して、魔法というより超能力の念動力だとか発火能力、透視や千里眼、念話や瞬間移動、未来予知のようなものがあるんです。
人間の才能みたいなものだと思ってくれればいいでしょうか?そうすると呪文だとか儀式、魔方陣なんかは努力に当たるものです。それらがどうして物理法則を無視できるかは分かりませんが、
一説ではこの世はシミュレーターのようなもので、プログラムに介入するデバックシステムにバグを持ったキャラクターデータが影響されて──すみません、話がそれましたね」
 俺は一切聞き逃さないと全身系を集中していた。魔人は立っている俺の向かい側の椅子に座り、俺にも同様に座るように促した。

 「魔法使いの子はだいたい魔法使いなんですが、その才能というのは、どういうわけか遺伝しない。彼方のご両親はどうですか?」
 「どうせ予め調べてあるんだろ」
 俺の両親は三歳の時に揃って事故死、奇跡的に助かった俺は孤児院で育った。もし、両親のどちらかあるいは両方が魔法使いだとしたらまさか事故も──?
などと過ぎったが、話が面倒になるので聞かないことにした。なぜなら俺には済んだことよりも、これから起こることが知りたかったからだ。
 魔人は俺の質問には答えずに続けた。
 「実は魔法使いを抱え込んでいる組織が幾つかありまして、兵士だとか何だとか需要には事欠きませんで、優秀な人員の確保には躍起になっているんですよ」
 「お前もなのか?政府だとかマフィアだとかの関係者?」
 「私はちょっと例外でして、そういう闘争の蚊帳の外だったんですがね」
 魔人はやれやれと溜息をついて微笑した。その時、俺の中に積っていた疑問が噴出した。
 「そもそも、お前は人間なのか?魔法使いなのか?どうして俺を助けるんだ?俺を殺そうとしている連中の目的は何だ?何で俺が時の魔法を使えるんだ?──」
 いったい何問ぐらい質問攻めをしたか、よく覚えていない。同じ質問を何回もしたような気がする。
俺が話している間、魔人は微動だにせずに質問に聞き入っていた。話し終わる頃には俺の喉はカラカラで、空の事を忘れて缶を口にするとぴちょんと垂れた一滴だけが喉を潤した。
 「私は人間です。それに、魔法使いだって人間ですよ。私が彼方を助けるのは、彼方を助けるように依頼を受けたからでして」
 「誰にだ」
 「それは言えません。ただ、言える事は、彼方を殺そうとしている連中は協会と呼ばれる魔法使いを中心に構成された集団のある魔法使いです」
 「その協会とやらが、どう俺に関係あるんだ?」
 「協会は魔法使いの傭兵に依頼を斡旋してる企業で、護衛から暗殺まで何でもござれですよ。登録して貰うために使えそうな魔法使いの新人を見つけてはアプローチをしていくんですが」
 「アプローチに殺しちまって良いのか?」
 「いえ、そうではなくて、彼方を殺せという依頼があったんですよ。反対に、私にはそれを阻止せよという依頼。
あ、私は協会に登録しているわけではないのですが……彼方を調べてみると、母親が魔法使いで事故死。その後は魔法学校にも入学することはなく、一般人として育った──」
 「魔法学校?」と、俺は言った。「そんなものまであるのか、魔法使いって何人ぐらいいるんだ?」

 「私も正確には知りませんが、まだ目覚めていない人を含めても百人もいないと思いますよ。これでも、一時期は迫害されて大分、数を減らしたそうで……
最近は上手い具合に隠してるみたいですけど……それに年老いると力を失うらしいですしね。まぁ、それは置いておきまして、どうして彼方みたいなまだ自覚してもおらず能力も分からない、冴えない経歴の魔法使い──」
 魔人が失言したかのようにわざとらしく言い直した。
 「失礼しました。どうして一般人である彼方を殺そうとしているのかと気になりまして、もしかしたら依頼人は彼方が時を操る魔法使いだと睨んでいるのではないか?と、思ったんです。
時を操る才能は非常に貴重でしてね。能力の分からない魔法使いなんて何十人もいるのに、どうして彼方に白羽の矢が立ったか分かりませんが……
ともかく彼方がそれだと誰かが思い込んでまして、誰かに利用されたら危険だと思ったのかもしれませんし、特定の能力系統に私怨を抱いている人もいますし、凡庸な才能の持ち主が貴重な才能の持ち主に嫉妬したのかもしれませんし……」
 「迷惑な話だ。それで、俺は実際にはどうなんだ?時を操れるのか?」
 「分かりません」と、魔人は困ったように言った。「弾を止めた事から彼方がある程度の物理干渉を伴う魔法を使えるのは間違いないのですが、あれは別に時を止めなくても出来るんです」
 この余りに常識とかけ離れた会話をしながら、徐々に俺は納得を始めていた。川と海の境目にいる気分とでも言うのだろうか。
いつの間にかそういったのがありえるんじゃないかという気持ちがありえないという気持ちを飲み込んできた。魔人は話し続ける。
 「魔法使いは、才能とある程度噛み合った事象なら本能的に発生させられます。丁度、目の前に何かが飛来したら、それが何であるかを理解する前に目蓋を閉じる行為に近い。
ただ、弾丸の速度はとても目で終えるものではないので、私は彼方が銃の存在を確認した時に、能力を用いた力場のようなもの──結界を用意したのではないか、と思っています」
 「……確かに、撃たれる前に馬鹿でかい銃を見て驚いたよ」
 「やはり……結界に触れたものは、結界の性質に相応しい末路を辿ります。燃焼して溶解したり、爆裂して飛散したり、発光して消滅したり、
追突して変形したり、様々です。他にも触れたものそのもの自体には一切の変化が無く、それ自体の情報を術者に知られたり、運動エネルギーの方向が捻じ曲がったりする場合もあります」
 「その場合」と、俺が口を挟んだ。「情報が云々の場合だが、その時、結界とやらを通過した弾はどうなる?」
 「特別な作用が働かなければ直進します」
 魔人はさらりと答えた。様子を伺いながら俺は恐る恐る聞く。
 「もし、俺がそれ系の能力だったら、弾を食らって?」
 「一発とはいえあれは対軽装甲車両用のでしたから、仮に食らっていたら死んでいましたね。でも、それはありえない」
 「なぜ断言できる?」
 「私は見ていましたから、あの時にスコープごしで。覚えていませんか?竜が彼方に襲い掛かったとき、止まったような感じがしませんでした?」
 「そういえば……でも、あれは恐怖と好奇心でそう感じただけで、走馬灯のようなものの一種だ」
 「違うんです」と、魔人が口を挟んだ。「あれは本当に動きが阻害されてました。だから、私の狙撃が間に合った。そうでなければ彼方はミンチになって血の海で溺れていたでしょうね」
 そう言うと魔人はいつの間にか肩から下ろしていた机の上の狙撃銃に視線を送った。俺もつられてそちらを見た。
 「それで、今分かってる事は、彼方が時を操る体質である可能性はまだ残っているということです。弾の時間を止めたとも解釈できますからね。本当は彼方があの時、時を止めて弾丸をかわすなり、
明らかに時間とは違うと分かるような方法で防御するなりしてくれればベストだったのですが……」

 「無茶言うな」
 「すみません」と、魔人は再び微笑しながら言った。しかし、アイレンズの中で絞られた目がまるで笑っていなかったのが少し怖かった。
 「ともかく、彼方の力が何であるかを正確に測る為に協会に接触したいと思っています。施設も整ってますし、登録すると様々な情報や安全な住居提供等の無償援助もありますからね。
噂では強力な魔法で守られた家らしいですから、そこなら、追っ手も来れないでしょう」
 「協会に行くのか?協会の奴に命を狙われているのにか?」
 「命を狙っているのは、協会の斡旋した魔法使いであって、協会員ではありません」
 「だが、俺は依頼を受けて暗殺だとかをするつもりはないぞ」
 「はい、別に依頼を受けずとも問題は無いのです。協会側からすれば大人数を抱えていれば、それだけで宣伝になりますからね。何せ魔法使いは貴重ですから」
 ある日突然、王様に悪玉を倒しに行けと言われた勇者は、丁度こんな気分なんだろう。何もしてないのに皆から勇者扱いされてまるで話が見えない。
だが、俺と勇者の違いがあるのならば、それは勇者は最初に弱いモンスターを倒してレベルを上げられるが、俺の敵は最初からレベルを完ストさせてるということだ。
 「俺はお前を信じて良いのか?顔も見てない、名前も知らない、本当の声も分からない。
理由も告げずに突然、現れて助けてくれる都合の良いスーパーマンだなんて。お前だって、依頼を受けたからだなんて、怪しいもんだ」
 「あ、そうでしたね。すみません。私は少々、そういった常識に欠けているもので」
 そう言うと魔人は飛び上がるり、自動拳銃を素早く抜いて俺側に向けて三発、発砲した。窓が割れた音がなったが、
ガラス欠片が落ち終わる前に、俺の後方から飛んできたであろう鉄杭が猛回転しながら眼前の机に深く突き刺さった。
衝撃で左右に振動し、びーんと輪ゴムをはじいたような音がした。鉄杭には何かの文字と陣のようなものが彫られて、弾丸によって一部が抉られていた。
 「何が起こったんだ?」

 俺は振り向くと、窓の外で浮かんでいる髭を蓄えた男が居た。男は帽子を深く被り、トランクケースを持って、
紫色の趣味の悪いマントを羽織っていて、その周囲を円状に高速で飛行する何千もの同様の鉄杭を見た。その回転の風圧で窓がぎしぎしと揺れている。
魔人の周囲の空気がちりちりと焼けたように感じた。拳銃から飛び出た薬莢が床で転がっている。
 「科学に頼った人間流の結界も、捨てたもんじゃないですよね」
 更なる追撃がきて、魔人は俺を押し倒して庇いながら鉄杭に向けて発砲した。高速で飛んできた鉄杭の行方は、魔人の背面に隠れて俺には見えなかった。
 「信じてくれなくても、構いません。どうあれ敵はいるのですから、今はただ私を利用してください。彼方を襲った竜の飼い主、串刺し公が来ました」
 「そいつが依頼を受けた殺し屋か?」と、俺は聞いた。魔人は俺の手をひいて廊下側に走りながら窓の外に向けて発砲した。
しかし、全ては串刺し公と呼ばれる男の周囲を守る鉄杭によって阻まれた。ガラス全体に雪の結晶のような亀裂が入った。
 「はい、私が知る限り、彼は微弱な磁力を操る程度の事しか出来ないのですが、鉄杭に描かれた方術陣によって効果を絶大
なものにしているようです。彼方は殆ど力を使えませんし、正面からでは勝ち目がありません。地下に車があります。逃げましょう」
 魔人は周囲に経過しながら、俺と一緒に室内の階段を用いて七階に下りた。八階から窓が何枚もの割れる音がした。
魔人の左肩を見ると、飛んできた鉄杭で怪我をしたのか、刃物で切られたように破けた防護服の下に、鍛え上げられた筋肉を被った衣服に滲み出る血が除いた
 「待ってくれ」と、俺が言った。「逃げたり、協会で隠れたりしても、いずれは見つかる」
 「少なくとも今は助かります」
 「それでも、俺を殺そうと依頼している奴らがいるってことは変わらない」
 「協会で彼方の能力が分かれば……」と、魔人は言葉を濁した。そう、もし俺が時を操れる魔法使いであったら、今後の状況は何ら変わらないのだ。
 「依頼を受けた魔法使いなら、依頼人のことを何か知っているんじゃないか?」
 「多少は知っているでしょう。ですが、串刺し公は殺す気満々。対して此方は準備不足もいい所です。捕らえて聞き出すのは無理だと思いますが……」
 「そうは言ってない。もし、殺しの依頼が失敗して相手が健在……お前はどうする?」
 「……なるほど」
 「串刺し公を倒して、協会に登録し、再度出された俺を殺せという依頼を俺が受ける」
 そんな提案をした俺はもうまともじゃなかった。だが、大改造されたマンションの一室で、鉄杭と一緒に空を浮遊する男に命を狙われて、
どこかに俺を殺そうという奴らがいて、俺が魔法使いで、隣の機動隊員もどきみたいな奴と話すというまともじゃない空間ではまともじゃない考えすらまともであった。
 「ですが」と、魔人が言った。「私の武器では、彼を倒せない。狙撃銃はさっきの部屋ですし、拳銃はまるで効果が無い。ショットガンの弾は焼夷弾と閃光弾しかない。
このマンションは私個人の訓練用兼休憩所のようなもので、他に使えそうな武器といえば彼方を試すために使った重機関銃程度のものですが、あれだって重過ぎて、とても持ち歩けたものじゃない」
 「武器ならある」と、俺は言った。この状況下で、震えつつある身体とは違い、心はどんどん落ち着いて気持ちが悪いほどだった。
 「策という武器が、な」

 貧困と犯罪の蔓延る温床のような貧民外の薄汚れた一角、そこが私の家であった。
蜘蛛の巣のように気持ち悪く入り組んだ路地が張り巡らされ、住人達から太陽光を遮った。
職も住まいも持たぬ者が多く、乞食や浮浪者が街中に溢れていた。乱雑に入り組んで悪臭が漂い不潔極まった。
唯一の飲み水は赤銅色をしていて、鉄のような味がした。
だが、もしも病に侵されたら、治療にかかれるはずも無く、のた打ち回ってこの世に絶望して死ぬのだ。
忘れ去られた部屋では、放置されて膨れ上がり、蛆が湧いて白骨になって朽ちていく死体が幾つもあった。
住人には良心は微塵も無く、人目も気にせず公然と犯罪が昼間から行われていた。
もし、誰かが迷い込もうものなら、犯人達が死体の処理を考慮しない限り、二度と出ることは許されなかった。
女は売春婦になるものが多く、それ故、子供達が街頭で溢れ帰り、彼らも生きるために狼のように群れをなして非行に走った。
そして、私もそんな中の一人であった。
 毎日のように、裏路地で拉げた鉄パイプを片手に、この街に迷い込んだ運の悪い獲物を選別するのだ。
売春宿に行こうとした鴨を狩れば、確実な報酬が期待できた。
どいつもこいつもどれだけ頼み込んだって、まるで俺達を助けてはくれはしない。
そのくせ、一晩を買うのには俺達が何日も食えるような大金を払う。
だから、数十発は殴って血の池に沈ませ財布の紐を緩くしてやっていた。
この行為に、罪悪感が無かったとは言わない。
だが、命乞いをする様子を見ると、助ける価値が無い屑野郎だって事が良く分かった。
ここでは、そうやって生きていく他に無かった。
肉の塊が浸かった目の前の錆の臭いがする池を見て、いつもそうやって現実に失望していた。

 稀に、何を勘違いしたのか、こんな街に住んでいる私達に説教をしにくる馬鹿もいた。
何時も、自分が恵まれているのを良い事に、上の立場から神の教えがどうだとか、
人の道がどうだとか満足げに語っては、五分後には血達磨になって身包みを剥がされていた。
そして、悪態をついて命辛々に逃げて行くのだ。
決まって「何をするな」や「何をするべきだ」といった内容でどうしてこの状況が発生しているのか分かってくれはしなかった。
ただ、「彼」を除いては──。
 その日も、私は鴨を狩って、目の前で失神した馬鹿の服から金目のものを貰っていた。
すると、背後の暗闇から足音がした。
強盗を見掛けて近付いてくるのは、この街では機能していない警察を除外すれば、
間違いなく目の前の男の仲間である。
戦慄して咄嗟に振り向いた先には、穏やかな表情を浮かべた白髪の見知らぬ男が立っていた。
この三十過ぎ程と思われる男こそが「彼」であり、この瞬間こそが私達の出会いであった。
 敵意を剥き出しにして今にも殴りかかろうとする私に、彼は言った。
 「恐れることはありません」
 初めて出会った時から、彼の表情から笑みは本物でとても眩しかった。
彼は呆気にとられている私の鉄パイプを取り上げて、目の前の瀕死の男を何度も何度も殴打した。
私が、どうしてそんな事をするのかと聞くと、彼は振り下ろしながら私に言った。
 「最期までやり遂げましょうよ」
 その言葉は天から降り注いだ太陽だった。
今まで、「やり過ぎ」と止めるように促した奴はいたが、彼は私にとっての革命だった。
飛び散る血も気にせず、彼は潰し続けた。
笑みに付着した血が垂れると、それは私に輝きを振り撒いて、世界が色褪せて見えた。
天地が逆転するような衝撃とはこれだった。

 彼は一通り終わると、彼は柔らかくなった肉を思い切り鉄パイプで突いて串刺しにした。
その様子に絶句している私を余所目に、額に血と汗が混ざった液体を流しながら、突然、私に抱きついた。
君に会えて良かったと、友達になりたいと言った。
私は事態を飲み込めずにも、首を縦に振って頷いた。
彼は歓喜の涙を流しながら、笑いかけた。思わず、私の口元も緩んで
、覚えのない感情が芽生えてきて、胸が温かく何とも心地よかった。
 「私は友達である君の力になりたいのです」
 彼はそう言ってその日のうちに私を街から連れ出した。
私にはあのような街には未練などは無く、母親も娼婦の中の誰かであるとしか知らないので、どうだって良かった。
 初めて見る外の新鮮さに私は酔っていた。
彼は、私に多くの事を教えてくれた。
私が、彼に、綺麗な水が透明であることを知らなかったと言っても、
彼の微笑みは慈愛に満ちていて一度たりとも私を嘲った事は無かった。
暖かい屋根のある家では、ふかふかした柔らかい布団で眠れることが出来た。
食べ物が腐ってないかを調べる必要など、ここではなかった。
けれど、毎日が奇跡の連続で、この夢が覚めてしまうのではないかと少し怖かった。
なぜならば、彼は数日や数ヶ月家を空けることもあったからだ。
彼が帰ってくる度に、仕事が何であるのかを尋ねても、返答は微笑のみであった。
それから数年の月日が流れた。

 ある日、私は「どうして私の為にこんな事までしてくれるのか」と尋ねた。
彼は、「友達だから当たり前じゃないですか」と私に微笑んでくれた。
それどころか、「友達の為に何かをするのがそんなに変でしょうか」と不思議そうに唸っていた。
彼の優しい心遣いがとても嬉しかった。
だが、いつしか立派な青年となり、ある程度の教養も身につけていた私にとって、
その一方的な依存とも言える関係は、少々、居心地が悪いものとなっていた。
思いつめた私は、食事の際に、ついにその事を打ち明けてみた。
 「私を友達と言ってくれるならば、何か役に立たせてくれ」
 すると、彼は涙をながら私を抱きしめた。そう、あの日のように優しく。
 彼は、私の目の前にスプーンを置くと、「身体を一切使わずに、スプーンを念じて動かしてくれ」と言った。
私は彼が私に諦めさせようとして無茶をやらせようとしているのだと考え、
「そんな事は無理だ」と怒ると、「君ならば出来ます」と自信に満ちた声で言った。
 「君は何だって出来ます、君なのですから。
君にはそれが出来る資格があるのです。
目の前のスプーンは今に動き出して舞うでしょう。
重要なのは集中することと、信じることですよ。
君は、私を信じてくれていますように、自分自身の可能性を信じるのです」
 最初は何気ない変化だった。
目の錯覚で片付けられる程度の微小な振動。
だが、私がその事実を受け入れねばならぬほどの事が起こった時には、
スプーンの細やかな振動で机が削れ始めていた。
飛び交う木屑の臭いに、私の全身が痺れた。
彼は大きな拍手をしながら微笑んで、
「信じていました」と言ってくれた。
その日から、私の日常は異常性に包まれた。

 彼から明かされた様々な事実は、
今まで数年に渡って学んだ常識を打ち壊すだけのものであったが、
既に彼との出会いという奇跡を体験している私にとって、
すんなりと受け入れられてしまうものであった。
この頃から、彼の家を明ける日数は極端に増え始めていた。
帰って来た彼の顔には疲労が蓄積され、苦悩の色に染まっていたが。
しかし、私が強まった力を見せると、彼は喜んでくれた。
彼の表情に笑顔を生み出せる自分が少し誇らしかったが、
それは同時に自分自身に焦りをも生んでいた。
自分自身の力の成長が、徐々に緩やかになり始め、限界を感じていたからだ。
 彼は互いの関係を友情と呼ぶが、
私自身は彼に崇拝にすら近い尊敬と感謝の念を抱いていた。
何か、自分にしか出来ない事は無いだろうか。
彼の助けになることはないだろうか。
私は少しでも彼に報いように必死に努力したが、
今以上に力が強まることは無かった。
 ある日、思いあぐねて彼がいない間に書斎に入った。
「絶対に入ってはいけない」という彼との約束を破って入った。
彼が何を考えているのか、知りたかった。
そうすれば、何か革新的な進歩が得られるような気がした。
扉の鍵などは、磁力を操れる私にとっては無いも同然であった。
鍵穴から忍び込ませた砂鉄を鍵の形に整形して捻るという単純な作業でしかなかった。
 彼の部屋には窓一つ無く、見たことも無いような文字で書かれた膨大な書類や、
液体で満たされた瓶が埃だらけの棚に敷き詰められていた。
ただ一つ、彼が何時も座っていたと思われる椅子と、
その手前の机に置かれた書きかけの日記帳だけは綺麗で、
ふと私の目に留まった。
私は後ろめたさも感じつつも、彼について知りたかった。
湧き上がる誘惑に勝てなかった私は、日記を最初の部分から読み始めた。

 だが、残念ながら私が手にしたのは日記帳などではなかった。
 「本当はやりたくないのですが、彼の為には私がやる他にありません。
友人である彼には心配をかけたくありませんので、悟られないようにしましょう。
本当は誰も殺さずに済んだら、皆が幸せなのですが……」
 そう記された後に、殺す相手の情報が詳細に書かれており、
涙の跡で濡れたように所々が滲んでいた。
その上に私の頬を伝う重くて冷たい液が落ちた。
 私はその日に家を出た。

 彼との約束を破ったことで、彼の中にのみ存在した私は、私という枠の中に息づいた。
だが、あのままでは薄ら寒いような感覚が日々を被った事だろう。
既に十数年の歳月が流れ、私は今では立派な魔法使い、それも殺し屋となっていた
。もう誰も殺したくは無かったが、自らを責める事で、
自らの飲み込もうとする何かを振り払える気がした。
何人も何人も、彼が私の為に殺したであろう人数の何十倍も、
彼が昔私にやって見せたように、串刺しにしていた。
 彼がどうして私の為に殺人を行う必要があったのか、
想像は出来ても正確なことは今日となっては分からない。
唯一つ言える事は、既に何もかも遅いという後悔の念だけであった。
もう何をしても私の視界は煤けていた。
 私が串刺し公として名を馳せた頃、魔力の経年劣化を自覚し始めていた。
それと同調するように、彼の存在は私の中で思い出となっていった。
能力と共に薄らぐ記憶。本当の私は過去に既に死んでいて、
今の私はその模造品のようなものなのかもしれない。
今では、そういった実感の伴わない生であった。
しかし、先日、私に纏わり付いた汚泥を払拭する出来事があった。

 魔法使い協会を通して私に送られてきて、一通の不可解な手紙。
私はそれが誰からのものであるのか、すぐに悟った。
 「君が必要です。友達より」
 今、私は彼との再会を前にして、時魔法使いを襲撃していた。

 人気が無く不気味な位に静かな郊外で、天に向けられた牙のように建てられた高層集合邸宅。
この建物が太陽光を受けて、日時計のようにその影をもって大地に短針を刻んでいた。
 地域から隔絶する折のように区画を遮蔽する柵に絡みついた蔓が風で揺れる。
外敵を拒むべく用いられた上端の切っ先もそれが空にあっては無力であった。
だが、そのありがちな外見とは裏腹に、内部には巧みな改造が施され、外敵の足を確実に阻んでいた。
 時魔法使いと魔人は七階に、彼らを狙う串刺し公は八階の窓から侵入して索敵を行っていた。
あらゆる周囲の残響を無数の鉄杭が空を裂く音が飲み干し、二人に近付きつつある死の節を奏でていた。
 回転から発せられた旋風により、串刺し公の羽織っている紫色をした外衣の裾が舞い上がる。
帽子の下に見える眉間の絞られた眼は、対象を探すべく視線によって室内を塗り潰していった。
歩く度に、持っている荷物鞄が砂が流れるような、金属が打ち付けられるような奇妙な音を発てた。
 高い天井を見上げ、生活感の無い室内と、入り組んだ廊下を見渡した後に、串刺し公が呟いた。
 「犬小屋と形容される日本の建物だが、意外に広い。
この建物中からたった二人を探すのは難儀なことか」
 彼が窓の外を見ると、同等の高さの建物は無く、寂しげに孤独な雲ばかりが流れていた。
 机に突き刺さった、弾痕により変形した鉄杭を見ると、彼は机や椅子を全て部屋の隅に投げ捨てた。
やがて、彼は床に向けて周囲の鉄杭をけしかけて、その鋭利で硬質な先端を用いて浅く彫り始めた。
漂う磁力に影響されてか、吸いつけられた空き缶が床を転がったが、たちまち風圧で吹き飛ばされた。
ほんの数分で彼を中央にして、削りかすが飛び交い、床一面には巨大な方術陣が描かれた。
 彼は自らの作品に満足げに微笑むと、再び髭の隙間の重く閉じられた幕が開いた。
 「この私がこの地域に相応しいように平らにしてやろう」
 七階に居た時魔法使いと魔人も、数十秒前から起こりつつある異変に既に気付いていた。
若干ではあるが、建物全体が揺れ始めて、壁が重圧で歪み始めているのが分かる。
 重機関銃を前にして、魔人の小刀を手にしている時魔法使いが訊ねた。
 「おい、何が起こっているんだ?」
 「もしかしたら……」と、魔人が答えた。「崩す気かもしれません」
 「崩すって、この建物全体をか?笑えない冗談だ」
 魔人は自動式拳銃に、装弾された弾倉を取り付けて、遊底を引いて弾丸を薬室に送り込んだ。
それを革の箱に収めると、続いて散弾銃を引き抜いて、実包を指で押し込む。
 「方術陣には受信機と増幅器の役割があります。
微弱な影響力でも、あの部屋の床全体を埋め尽くすようなものなら或いは──」
 「分かってる。お前な、これは皮肉っていうんだよ」
 「あは、すみません。それって笑えない冗談ですよね」

 魔人は返答の反面、防毒面の下で肩を揺らす程に、けらけらと愉快そうに笑った。
彼は戦術胴着から合成樹脂容器を取り出すと、蓋を開けて中の軟膏を指先に付け、肩の傷に塗った。
一方で、時魔法使いは不愉快そうに目配せしながら、刃先で重機関銃用の弾帯と弾芯に紋様を削っていた。
 無駄に広い廊下で各々の役目をこなす両者を、沈黙と緊迫感を笑いが生暖かく包み込む。
しばらくすると、大きな揺れが来て、天井の電球にひびが入り、粉がぱらぱらと振ってきた。
 「もう時間が余りないようです、大丈夫ですか?」
 魔人が額に汗を浮かべる時魔法使いの様子を伺った。
脚が震えているのは、決して建物のみによる影響ではない。
 時魔法使いは大きく息を呑むと答えた。
 「大丈夫、もう準備は出来た。確実に成功する」
 魔人は自らの自動式拳が入った銃革の箱を時魔法使いに渡した。
 「いえ、準備の話ではなく、彼方自身です」
 時魔法使いは不自然な笑みを浮かべて、余裕を演出した。
それが、その時点で彼に出来る最後の精一杯の策だった。
 時魔法使いは汗だくで震える拳を、数回強くぎゅっと握りこむ。
震えが止まると解き、自らの頬を左右の手でぱちんと叩き、魔人に向かって言った。
 「こっちも大丈夫だ」

 既に建物の構造を熟知していた魔人を仲間に持つ時魔法使いにとって、
巨大な回転音を纏いながら戦う串刺し公に対して先手を取るのは、容易なことであった。
 彼らが再び八階に上がった時には、窓という窓は割れ果て、壁という壁には亀裂が走っていた。
徐々に外に見える風景が低くなっているのが感じられ、倒壊の迫りを示している。
 廊下を駆け上った後に、時魔法使いは正面から同一の部屋にいた串刺し公へ挑んだ。
二人が逃げ込んだ廊下から、彼は再び攻勢へ出ることにしたのだった。ある物を握って。
 足音を感知したのか、顔を出す寸前で鉄杭が強烈に飛来して、壁を突き破った。
様々な方向に飛び散った破片が彼の目の前で、あたかも固定されたように停止する。
串刺し公は念入りにと、壁際に落ちていた狙撃中目掛けて杭をよこし、一本が引き金部分に突き立てられた
 今、彼には絶大なまでの余裕があった。この高層邸宅はあと数百秒もすれば崩れ去る。
さらに自らには鉄杭の海があり、全ての攻撃は飲み込まれて藻屑と化すのだから。
 串刺し公が、壁に隠れてまだ見ぬ対象へ向かって言った。
 「私の力も落ちたものだ。この威力、戦車砲に匹敵する時代もあったというのに……
一撃で仕留められないばかりに、長く恐怖に浸されてさぞ苦しいことだろう。
だが、安心するといい。もう楽にしてやろう」
 串刺し公が目を見開くと、鉄杭の群が不規則に加速を始めた。
しかし、それらが時魔法使いの身体を射抜くことは無く、上階への階段からの敵意へと向けられた。
 串刺し公の視線の十三メートル先には、散弾銃を構えた魔人がいた。その銃口は彼に向けられている。
ただちに川のように流れて旋回する鉄杭が、両者の距離に割って入り、その射線を断絶した。
 魔人は一切の躊躇いを無く、発砲した。鉄杭に着弾したそれは、強烈な閃光を放った。
牢のように堅固な杭の盾の隙間から漏れ出た輝きには、串刺し公も帽子下げて目を伏せた。
 だが、歴戦の彼の直感は、その状態においても時魔法使いの投げつけた影を払いのけた。
「お前はあるか?俺には無い」廊下先の壁に隠れながら時魔法使いが言った。
「殺す対象に殺されたことってさ。俺は今まで殺しなんてしたことはなかった。
普通に生きていて、魔法があるなんて夢にも思わなかった。そう願っていた。
今、お前が飛ばしてる杭だって、理屈を捏ねて否定したい気分なんだ」
 たちまち鋼鉄の濁流に飲み込まれた影は、元から影のみであったかのように跡形も無く視界から消えさった。
 「私にも無いさ、なぜならこうして生きているんだからな」
 彼が手提げ鞄を開けると中から追加の鉄杭ががらがらと毀れ出た。
他にも半透明で薄い合成樹脂の袋で梱包された砂鉄が数キロ分だけ入っている。
 「だけど」と、時魔法使いが部屋全体に響くほどの大声で叫んだ。
「認めなけりゃいけないみたいだ。俺は死にたくないからな」
 身を乗り出した時魔人の両手には、自動式拳銃がしっかりと握られていた。
ゆっくりと引き金を絞るが、その射線には常に回転する鉄杭の流れがあった。
 串刺し公がにやりと笑って聞いた。
 「何を認めるって?」

 「奇跡を」
 放たれた弾丸は、やはり串刺し公の盾に吸い寄せられたように命中した。
次の瞬間、一階までも木魂するような激烈な爆発音と共に、鉄杭の流動が周囲に散開した。
飛び散った無数のそれらは、室内外だけでなく外にも向かい、壁一面には刺さった杭だらけだった。
 時魔法使いは自らの目の前で停止したばかりの槍衾の隙間から、仰天した串刺し公へ再び引き金を絞った。
一発、二発、三発と、放たれる度に串刺し公は後退し、やがて彼は縁まで後退していた。
 「お前の磁力の有効範囲が狭いことは、すぐに分かった」と、時魔法使いは言った。
「どうして無数の鉄杭を浮遊させながら、一斉に襲わせないのか?それは、お前には出来ないからだ。
お前を中心に周囲を回っていた鉄杭の軌跡、それがお前の魔法が影響できる範囲を示している。
極めて短い範囲の中で、攻撃と防御を同時に行う方法が回転だとお前は結論付けた。
鉄杭は磁力に従っているだけで、お前が鉄杭そのものを操っているわけではない。
一度でも推進力を失った鉄杭はそのまま放置されたのが……その証拠だ」
 「鋭い洞察力だ……しかし、どうして私の盾が……?」
 串刺し公が吐血しながら聞いた。既に脚が笑い立っているのがやっとに見えた。
時魔法使いは気にする様子が無く、自動式拳銃を突きつけながら続けた。
 「気付くと同時に、ある疑念が浮かんだ。何のための鉄杭の方術陣か、と。
最初は単に操作性を上げるためのものかと考えた。だが、すぐに間違いだと気付いた。
お前はここに来るときに飛んでいたからな、周囲の何百という鉄杭と一緒に。
全てを独立させて精密に操作しているならあのような使い方はしない。
この考えを決定付けたのは、もし可能ならば先制攻撃で俺だけを狙う理由が無いからだ。
お前は鉄杭を飛ばすとき、回転で加速させて、射程内の力場の均衡を意図的に崩すことで、
その引力圏から逃れて行った鉄杭を敵に向かって直接飛ばしているに違いない、とな。
だから、二人を同時に狙うには雑に広範囲を打ち抜くか、お前のように個別に狙うしかない。
だが、前者を選ばなかったことからそれは実際には現実的な選択肢ではなかったと分かる。
回転は円。狙い打つ範囲を広くすれば広くするほど、順が遅くなる鉄杭の加速距離は短くなる。
仮に、射角を九十度とすれば、最後の一撃は初弾の四分の三程度の加速距離しか得られない。
全力でも目視で銃弾に弾かれる程度の威力なのだから、あれ以上の減速は望ましくない。
無論、精密に操作が出来るならば、問題の解決法はいくらでもあった。が、お前はしなかった。
これはお前に鉄杭を個々に精密な操作をすることが不可能であることを二重に示していた。
以上のことから分かる事は二つ。お前は磁力で個別に操作しているわけではなく、恐らく二つの流れが限度。
つまり、お前の描く方術陣は、受信機などではなく……影響力の増幅装置として用いられ、
さらには、それが影響されるべきではない磁力の流れを選別するための──魔除けだ」
 これを聞いて、串刺し公が拍手をしながら笑い出した。口から血が吹き出るが構う様子が無い。
唇から垂れ出る血液が髭に染み込んで、見る見るうちに全体が赤く染まっていった。
口を明けた串刺し公に向け、時魔法使いは手に持った自動式拳銃を両手でしっかりと構えなおす。
 「これは面白い、とんだところに名探偵がいたものだ。」
 「重機関銃の弾丸に鉄杭と同様の魔除けを書いて投げ、拳銃で打ち抜いてやった。
お前は何か理解できなかったようだが、それらはお前の鉄杭と一緒に流れていた。
本来、筒がなければエネルギーのほとんどが拡散して弾丸はあらぬ方向へ飛ぶし殺傷能力も低い。
だが、ほぼ零距離でなら、それだけで鉄杭を弾き飛ばすには十分の速度だった。
別に弾き飛ばさなくても、方術陣を僅かにでも傷つけさえすればよかった。
拳銃弾で盾の中に紛れていた弾丸が暴発し、それが他の鉄杭や弾丸へ命中……連鎖していったんだ」
「なるほど、私は会った瞬間から話しすぎていたわけか
一方で私は何も知らなかった。あまりに無知だった。
参った参った、今後の参考にするとしよう」
 「もう決着は付いた」と、時魔法使いが大きな溜息をついた。
「今後があるかどうかは、お前が俺に聞かせてくれる依頼者についての情報にかかってる」
 「依頼者……『彼』のことか?」串刺し公が目を見開いた。「それは出来ない相談だ」

 床に描かれた陣が突き出し、足をとられた時魔法使いは転倒して廊下側へ転がっていった。
串刺し公も、歪んで傾いて倒壊を始めた縁で、もたれかかっていた庇ごと崩れて落ちかけるが、
滑り転がってきた鞄の中に入っていた鉄杭を掴むと、能力で勢い良く加速させ、床に突き刺して止まった。
辛うじて傾斜の付いた八階で耐えつつある彼が下を見ると、七階の庇が見えた。
彼の外衣の下からさらさらと砂鉄が毀れだし風で舞う。砂は沈みつつある太陽光で深く煌いた。
 串刺し公の血で真っ赤に染まった白髭が開き、自らに言い聞かせるように話し始めた。
 「名探偵……君の推理には一つだけ誤りがあった。私の操れる流れの限度は三つだったということだ。
服の下に砂鉄で防弾板を用意させて貰ったよ。骨にひびが入ったようだが、貫通はしていない。
新人にここまでやられるとは、思っても見なかった。やはり、『彼』は素晴らしい。
もう魔力も限界だ。今回は引き分けとして、私は出直させてもらう」
 「笑えない冗談です」
 串刺し公が声の先を見上げると、そこには十階の庇から降って来る冷蔵庫があった。
目の前が衝撃で暗転したと思うと、再び確認できた視界には写真のように綺麗に夕日色に染まる雲と冷蔵庫。
空を掻きながら、眼前から冷蔵庫を必死に退かすとこちらを凝視する暗く冷たく深い何かが見えた。
 静かな夕暮れに、水風船を叩きつけたような生々しい音が鳴った。魔人は串刺し公であったものを一瞥した。
串刺し公の身体は柵に突き刺さってから地面に叩きつけられていた。赤インクを噴出していた。
 串刺し公は串刺しになって死んだ。

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