加賀見その3(33~39停止目)

Illegal&Fiction

 

『Illegal&Fiction ――an overture――』

 その日も少女はいつものように、馴れた手つきでPCを起動させ、
 モニターの向こうに拡がる文字列の海へ、自己を埋没させる。

 その行為に大した理由などはなく、
 脳裏にあるのは未知の事柄に遭遇する期待と僅かな恐怖。 
 それは現実の海へ潜るときに抱く感情に、少し似ているのかもしれない。
 もっとも、少女は泳げないので、あくまで想像でしかないのだが。

 などと物思いに耽る間にも、キーボード上の両手はせわしなく動き続け、
 少女の意識を奥へ奥へと導いてゆく。

 目指す場所は一つ。

 PCが人々に普及し、電子の網が世界を覆い始めてから、数十年の時が経過した現代。
 日ごとに膨張してゆく情報の海。
 だが、その影で消えてゆくモノも少なからず存在する。
 淘汰されたサイト、役目を終えたデータの欠片――やがてそれらは海の底へと沈殿していく。

 それは、いつしかネット上で“遺跡群”と呼称されるようになり、
 物好きなPCユーザの出入りする場所となっていた。

 彼女が目指す場所というのもまた、その遺跡群のことである。

 そんな少女の趣味を知る多くの人間は、『理解ができない』と口を揃えるが、
 彼女にしてみれば、そんな周りの人間のほうこそ、理解できないでいた。
 過去の人々の思いが綴られた、数多のログや、不規則にクラックしたプログラム……
 その一つ一つは、まるで神殿に施された豪奢な彫刻のようで、その美しさは
 見ているだけで、心が満たされるというのに、なぜ? と言った風に。

 しかし、逆から考えてみれば、自身は幸せなのかもしれないとも思う。
 生まれ持った“物好き”な性格とやらのお陰で、お気に入りの場所を、好きなだけ占有できるのだから。

「さあ……どこからいこうかしら」

 少女はモニターに一言呟いた後、
 まだ見ぬ事柄を探すため、膨大な遺跡群へ足を踏み入れる。

 より深く、暗い場所へと一歩ずつ――……。

 ――――数ヶ月後、一人の少女が屍体となって発見される。

 見つかった少女のカラダには、人としての面影など、朧げにしか残っておらず、
 在るのはただ、コンクリートのキャンバスに花開く、血と肉片の群れ。
 その余りにも凄惨な有様は、稀にみる猟奇殺人として、やがて拡大してゆく。

 その過程――事件の捜査が進められるなか、
 少女の自宅で見つかった一つのPC、偏った嗜好のアクセス履歴。
 そこには少女が、最後に閲覧したサイトも記されていた。

 ただ一言“30seconds stoppers”と――――……

 

 ――――その日、狩人に出会ったのだ。
 
 舞散る血飛沫を化粧に変えて、夜に踊る狩人に――――

『Illegal&Fiction ――D×××……――』

 春が過ぎ、季節が夏へと移り変わる――そんな日々。
 春先からベッドに敷いていた厚手のシーツに、僅かな寝苦しさを感じ、
 奈落 楔はその日、普段よりも幾分早く目を醒ました。

 眠気を帯びた意識のまま、ふと窓から見上げた空は、
 今にも泣き出しそうな曇り空。起きた早々、気が滅入りそうな天気である。
 そんなことを思いつつ、景色を暫らく眺めた後、
 楔はムクリとベッドから身を起こし、寝汗を吸ったカットソーを脱ぎ捨てリビングに向かう。

 楔の住む一軒家――奈落家の朝は静かなモノである。
 理由は二つ。
 一つは元々この屋敷は、とある小説家の別荘だったモノであり、
 住宅街から少し外れた場所に位置していること。
 そしてもう一つは――現在、奈落家には楔しか住んでいないこと。

 数年前、物理学者として活動していた彼の義父、奈落 宗一朗は、
 当時、身寄りの無い孤児であった楔を養子に迎え、この街――模氏時市に移り住んだ。
 引き取られたばかりの頃の記憶は、今では朧げにしか思い出すことができないが、
 だが、その頃から、何時も笑顔の絶えない優しい人だった事だけはハッキリと覚えている。
 けれど、そうやって生活を共にした義父も
 楔が高校に入学する頃――ちょうど一年程前に逝ってしまった。

 その後、宗一朗の死後は、彼の親族が楔の一応の後見人となっており、
 最低限の生活費と学費を仕送りしてもらっている。
 一度、この家を売り払い一緒に暮らさないかとも提案されたが、
 考えた末に断ることに決めた。
 その結果が、現在の独り暮らしである。
 初めの頃はどこか落ち着かない日々が続いたが、今では大抵のことはこなせるようになり、
 体力的にはキツイけれど、精神的には気楽な生活が送れている。

 けれど、時々思い出すことがある。特に、こうやってリビングに置かれた
 テレビのスイッチを入れたときに。
『ニュースをお伝えします。昨日、××県模氏時市にて――――』

 テレビのスイッチを入れると、屋敷の中に灯が燈るように感じられる。
 それはかつて、宗一朗と暮らした日々に、燈っていた灯のようで――――。
 所詮それは造り物だと理解っているのに、酷く懐かしく感じることがあるのだ。

「はぁ……」
 と、思わず溜め息を漏らす。
 こう――天気の悪い日は気持ちまで滅入ってしまう。
 心の中でそうぼやきながら楔は、テーブル近くの椅子に腰掛ける。

 テレビに映るのは早朝のニュース番組。
 普段より早く目覚めたこともあり、内容は芸能関係といったところ。
 先程までの堅苦しさはどこへやら――少し砕けた雰囲気の司会者は弾むように原稿を読み上げる。
 その様子を眺めつつ、半ば手持ち無沙汰気味だった右手でテーブル上を探り、
 ビニール袋を掴み取る。
 袋の中身はバイト先で貰ったクロワッサン。今朝の朝食である。
 零れ落ちるパンの欠片に注意を払いながら、楔はモソモソとクロワッサンを頬張る。
 バターやジャムを付けずとも、その味はほんのり甘い。
 空腹感から三つほど完食の後――――パンによって吸い取られた口内の水分補給のため、
 リビング横のキッチンへ向かう。
 ペットボトルに入れ、冷蔵庫内で冷やしておいた麦茶を飲んでいる――と、
 テレビから聴き慣れた効果音が鳴る。

 壁に掛けたアナログ時計へと視線を向ければ、針が指し示す時刻は午前七時。
 楔が普段起床する時間をまわっている。
 ――ああ、もうそんな時間か。
 観ればニュース番組の司会者も、襟を正し、
 数十分前に読み上げたであろう原稿を再び読み上げている。

『次のニュースです。昨日未明、××県模氏時市にて――……』

 そんな中――――
 不意に、数十分前――ボンヤリとした意識で聴いたフレーズが耳を過ぎった。
 原稿を握り締めた司会者は、やや口早に――どこか機械的に続ける。

『――発見された遺体は、死後数日ほど経過しており、警察は遺体の身元確認の他、
 これまでに模氏時市で発生している猟奇殺人事件との関連性についても、捜査を進めています』

 ニュースの内容は屍体発見の一報であった。

 ■■

 登校時間が迫る。
 ハンガーに掛けておいた学生服に袖を通した後、ザッと戸締りを確認し、
 庭先に留めておいたMTBを押し進めながら家を出発する。

 自宅を出てすぐ視えるのは、アスファルト舗装の道。
 そこからはMTBのペダルに足を掛け、漕ぎ進めていく。
 顔に当たる風は、湿気を含み生温い。
 楔の通う高校――模氏時高校は、楔の自宅から市内方面に自転車で三十分程の距離。
 MTBで登校するには少し遠い。
 市内を巡回しているバスを利用すれば楽に登校できるのだが、
 その為だけに仕送りを増やしてもらうのは忍びない。
 それにまあ――景色を眺めながらペダルを漕いでいると、言うほど疲れは感じないし、
 その日の気分によって登校ルートを変えたりできるので、これはこれで悪くない、と思う。
 
 ちなみに今日の登校ルートは、最近のお気に入りである裏道を主体にしたモノ。
 このコースの裏道には、昔ながらの日本家屋が点在している。
 例えば道路の隔てた反対側に在る建物もそうだ。
 確か――加賀見なんたらとかいう昔の小説家の生家だったか。
 このコース以外にも、模氏時市内にはああいった建物が多い。
 小説家や画家がこの街から数多く輩出されているのが、恐らくその要因だろう。
 この事は模氏時市のHPでも“歴史と文化の街、模氏時”などと銘打たれ
 特にプッシュされており、ちょっとした観光名所にもなっている。 
 古き良き風景が僅かに残る――そんな有り触れた街。
 それが住民の共通認識であり、この街の良さでもある。

 だが――現在、模氏時市は約二週間前から頻発しているある事件によって、
 俄かに世間を騒がせている。

 ――――思い出すのは先程観た朝のニュース。

 ――猟奇殺人。
 模氏時市で発生している事件の名称である。
 発見された屍体は損傷が激しい個体が多いといった特徴があり、
 その事などから同一犯の犯行だと言われているが、未だに犯人は捕まっていない。
 恐らく殆どの住民が気に掛けているこの事件。だが特に――楔には気掛かりな理由がある。

 ……この事件の幕開け――最初の犠牲者は楔の同級生の少女なのだ。

 少女の名前は、木岡 刻美。
 彼女とは入学当時から同じクラスであったが、会話を交わしたことはない。
 一年時より不登校気味であったことに加え、どこか近寄り難い様相を呈していたからだ。
 ――――天才。
 生前の木岡 刻美はそう形容されていた。
“天才”という言葉には、複数の意味合いが含まれている。
 額面通りに捉えるならば、文字通り一分野に秀でた才能を持つ者といえるが、
 見方を変えれば、一般の人間とは違う存在――つまり変わり者とも取れる。
 ――木岡 刻美はその両方を内包した存在だった。

 本来、彼女は高校に通う必要は特に無かったらしい。
 十三歳の頃には大学レベルの“カリキュラム”を修了していたからだ。
 ――稀なケースだと思う。
“カリキュラム”は十三歳になると同時に全ての学生が履修できるようになる
 特別な教育プランのようなモノだ。
 一学年ごとに区切られ用意されている“ソレ”の内容は――主に難解な問題と理論の羅列。
 並みの成績程度の学生が自身の学年の“カリキュラム”を履修しても、理解できぬまま
 受講費のみが消えてゆく――そんな代物である。
 元々は、海外のニュースなどで見掛ける“飛び級”を日本にも導入し、
 優秀な人材の早期育成を行う事が狙いだったそうだが、そのような理由から履修者の伸びは今一つ。
 現在は学年に数人はいる俗に“秀才”と呼ばれる学生達が、自身の学年より一つないし二つ上の
“カリキュラム”を履修し、修了認定を貰う――といった状況だ。

 そんな“カリキュラム”を、彼女は履修可能になったその年に全て修了し、
 三年後――楔の通う模氏高校に入学した。
 ――学ぶ事柄など何もなかったのではないかと思う。
 現に生前の彼女が、学問全般――特に理系分野において教師達を圧倒していた事を覚えている。
 だが、やがてそういった日々に愛想を尽かしたのか、彼女は段々と不登校気味になり、
 学年が一つ上がってからは、一度も学校に登校して来ない状況が続いていた。
 ――――そして、例の猟奇殺人。
 彼女は事件の最初の被害者として――その生涯を終えたのだ。

「今という時代を、ヒトとして型創ったような少女だった」

 ある教師が彼女の死後、ポツリとそう漏らしたことがあった。
 現在――即ちネットによる情報化、電子化の進んだ時代。
 教師の言葉は所詮唯の比喩に過ぎない。
 けれど――もし本当に、彼女がそんな時代から生じ――型創られたのならば、
 彼女に相応しい世界は果たして此処だったのだろうか。
 彼女――木岡 刻美は天才染みたその奇行を通じて、自身の居場所を探していたのかもしれない。

 まあ――あくまで夢物語染みた想像でしかないのだが。

 ■■
 
 ふと、前方にコンクリートで造られた灰色の建物が見えていることに気づく。
 ――――学校だ。
 物思いに耽っている間にも、脚はペダルを漕ぎ続けていたのか、距離はもう目と鼻の先。
 脚に力を籠めスピードを上げ、数分後――学校へ辿り着く。
 駐輪場へMTBを停め施錠した後、下駄箱を目指し、校門を越えた先に続いている階段を昇っていく。
 その最中、なんとなく三階にある自身の教室へと視線を向ける。
 開いた窓、風を受け靡くカーテン。

 そしてその隙間から見え隠れする、かつて彼女の席であった机には――今日も白い花瓶が置かれている。

 三階までの階段を昇り、その先に在る自身の教室に向かう。
 教室の前――取り付けられた引き戸式の扉を開け、教室内に入ると、
 聞こえるのは暇を持て余したクラスメイトの談笑や寝息。いつも通りの光景である。

 そんな景色を片目に、楔は窓際まで歩き、通学鞄を机に置く。
 動作の途中、目の前の机に視線を向けると――そこには先程見た白い花瓶が一つ。
 花瓶には、昨日とは違う種類の花が活けられている。
 楔の席は窓際の後ろから三番目。木岡 刻美の一つ後ろの席といった位置関係である。
 よって今のように、無意識に視線を投げるだけで白い花瓶――および花が目に映る、という訳だ。
 自分とこれといって関わりの無い木岡 刻美の事を、今朝のように時折思い返してしまうのは、
 こういった要因があるのかも知れない。

 そう思いながら椅子に腰掛け、ホームルームまでの時間を潰していると
「オーッス」
 視界の外から不意に声を掛けられる。
 声のした方向へ振り向くと、クラスメイトである尾藤 秋華の姿があった。
 薄く赤色に染めた短髪。陽気な笑顔。
 楔とは高校入学時からの付き合いであり、友人の一人である。
「おー、おはよ」
「オイオイ、元気ねぇなー。テンション低いぞー」
「こんな天気でしかもこんな席だと、上がるモンも上がらないさ」
 弾むような秋華の声に対し、楔は少し溜め息混じりに主張する。
 それを聞いた秋華は僅かに首を捻った後、ああ、なるほどと頷いた。

「そういやこの前もそんな事言ってたな。まあ――俺もこんなモンが目の前に置いてあったら、
 良い気分はしないだろうけどさ、あんまり気にしないほうが良いと思うぜ」

 秋華はそう言って、花瓶に活けられた青色の花を指で軽く弾く。
 揺れる花――落ちる水滴。
「そりゃそうだけどさ――」
「だろ? 大人達みたく深刻に考えてもしょうがないぜ。現にウチの教室に漂った葬式ムードも、
 今じゃこの通りだ。俺も含めその程度の認識なんだよ。最近じゃ寧ろ、事件を楽しんでる奴もいるくらいだし」
「? 楽しむって何が?」
 楔は問う。
「事件に関する噂だとかを言い合って、ゲーム感覚で楽しんでるってこと。
 お前みたいに部活入ってる奴らには、あんまり広まってないみたいだけどさ、俺みたく部活に入ってない生徒の
 間じゃ色々広まってる。そういやそこの――木岡の噂もあったぞ。なんでも事件の何日か前に、
 街外れで妙なカッコ――やたら厚着して歩いてる木岡を見た、とか。中にはカイジュー連れてたってのもあったぜ。笑えるだろ?」

「はぁ、なんだそりゃ」
 秋華の言う噂――その突拍子もない内容に、楔は呆れたふうに答える。
 みんな暇なんだよ、と秋華は苦笑しながら言った。
 ――――それと時を同じくして、ホームルームを知らせるチャイムが鳴る。
 校門付近の生徒達は足早に階段を昇り、教室内の生徒達はダラダラと自分の席へと戻っていく。
 それは楔や秋華にとっても例外ではない。

「そろそろ担任が来るな、っと」
 秋華は軽く腰掛けていた他人の机から腰を浮かし、そう言う。
「だな。早く席に戻ったほうがいいぞー。チャイム鳴ったのにこんなトコに突っ立ってたら、急遽日直とかもありうるからな」
「あーそれは勘弁、なんで戻るとしますか。じゃあまたな楔、気だるいからって寝んなよ。なんせ俺の期末テストの命運は
 お前に懸かってるんだからさ」

 言って秋華は自分の席へ戻っていく。その背中に向かい楔は、「善処するよ」と言った。
 まあ――寝ない自信は微塵も無いのだが。
 実際のところ、この湿気た空気と曇り空のせいだろうか、最近やたら眠たい日々が続いているのだ。
 今日はそれに加えて、朝、無駄に早く起きてしまった事もあり――眠い。
 黒板横に貼られた時間割表を見遣り、内容を確認する。
「……寝るかな」
 苦手および危ない教科がないことを確認し、独り言のように口にする。
 頼りにしている、と言っていた秋華には少し悪い気もするが――特に問題は無いだろう。
 楔は、そう考えを纏める。
 そこに、定刻から少し遅れて担任の教師が教室内に現れ、朝のホームルームが始まる。
 教師が言う連絡事項を、他の生徒と同じようにボンヤリと聞いてゆく。

 やがてホームルームが終わり、授業の始まりを知らせるチャイムが鳴ると、
 それを合図としたように、楔は自分の机に突っ伏し――目蓋を閉じた。

 授業が終了し、放課後。
 クラスメイト達は、それぞれの友人と言葉を交わしながら教室を後にしていく。
「楔、帰ろうぜ」
 その様子を横目に、秋華はどこか気だるそうな口調で言い、楔の元へと歩み寄る。
「あ……悪い。今からちょっと部室に行かないといけないんだ」
「部室? 確か今週は部活動って休止じゃなかったか?」
 楔の言葉に秋華は怪訝そうな表情を浮かべた。
 無理も無い。事実、秋華の言葉通り現在全ての部活動は、期末テストの勉強期間のため休止となっているのだ。
「確かにそうなんだけどさ、一応部室まで行って今後の予定を確認しないといけないんだよ。
 ほら、最近色々事件が起きてるだろ? その影響で休止期間が延びるかもしれないからさ」
 そんな秋華に対して楔は事情を説明する。

「ふーん。大変だねぇ、部活動生は。あんまり時間掛からないようなら待つけど、どうする?」
「あー……それも悪い。予定見終わったら即帰宅即バイトなんだよね……」
 誘いを度重ねて断られ、秋華はやれやれと溜息混じりに首を振った。
 ――何だか申し訳ない、と楔は思う。
 その様子に気づいたのか、秋華は気にするなよなと笑った。
「それじゃ、俺先帰るわ。楔、また明日なー」
「ああ、今日は悪かったね。明日はどこか寄り道でもして帰ろう」
 楔の言葉に対し、踵を返し教室の出口へと歩を進めていた秋華は、振り向かず手を軽く振って答えた。

 ――――その後、秋華と別れた楔は一人、校舎から少し離れた場所に位置する部活棟の一角――空手部の部室へと
 向かい、部室横のホワイトボードに書かれた今後の予定を確認する。
 書かれている内容によれば、試験が終わった後も三日間部活を休止し、様子を見るのだそうだ。
 ――事件に振り回されてばかりだな。
 楔は心の中でぼやきながら部活棟を後にし、そのまま駐輪場へと向かう。
 自転車に嵌めたロックを外し、自転車を駐輪場の外へと押し進めていると、校舎にチャイムの音が響く。
 見れば、校舎の屋上近くに備え付けられた時計――その針は六時を差していた。
 さらに視線を上へと向ければ、今朝から続く曇り空の隙間から差し込む光は僅かに紅色だ。
「……急がないとな」
 こんな場所で時間を喰っているとアルバイトに間に合わない。
 楔は視線を空から地へ――上から下へと戻そうとする、と――
「――――」
 その過程――ふと楔の瞳に映ったのは、今朝も見た自身の教室の窓辺。
 ただ、今朝と異なる点は、雲の隙間から差し込む光の色と伽藍堂な校舎と
「……誰かがいる?」
 風にたなびくカーテンから見え隠れする女性の姿。
 女性は群青色の長髪をポニーテールにし、下半身は見て取ることができないが、上半身は
 学校指定の制服とは異なったデザインの紺色のブレザーを羽織っている。
 ――学校見学の類なのだろうか?
 楔の胸の内に疑問が去来する。
 だが、それも数瞬の内に片隅へと追いやられた。
 そう――今はこんなことをしている場合ではない。
 楔は窓辺へと向けた視線を外すと、ペダルに足を掛け、自宅方面へと自転車を漕ぎ進めた。

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