イカリングその3(32停止目)

 

契約。
その代価は皆無に等しく、得たものは果てし無く大きい可能性。
30秒、
それが俺に与えられた物
時間を止める能力。

だが甘い話には裏があると言うのは本当の話で
その代価はそれ相応の物であった。

これは昔にあった、ある青年の物語____________


彼は世間一般で言う、『不幸な少年』であった。
幼くして親を失い、祖父と共に生活を営んでいた。
私が彼に惹かれた理由は彼には素質があったからである。
彼は祖父のもとで真っ直ぐと育っていったが根元にある屈折がなくなる事はなかった。
だが、彼はその黒い感情を表す事はなかった。
彼の他人との繋がり、祖父への愛がそれを止めていたのだろう。

『人間とは実に興味深い』

負の感情もあればそれを止める正の感情も持っている。
相対した両の感情をその小さな魂に宿している。
私は好奇心に駆られた。
その負の感情が一線を越える『きっかけ』を与えればどうなるだろう?
彼は私が与える力をどう使うだろうか?
その結果、彼はどうなるのだろうか?

退屈だった脳に稲妻が走り、恐ろしいほどの興味が湧いた。

私は彼に契約を持ちかけた。

与える物は時間を30秒だけ止める能力

代価は彼の正の感情 
愛、信頼、友情、幸せ
源は負の感情
憎しみ、怒り、嫉妬、傲慢
彼は二つ返事で承諾した。

それにしても驚いた。
突然、黒いローブを着た男が目の前に現れて時を止める能力を授けていった。

帰り際に男は言った。
「この力の源は君の負の感情であり、この力の代価は君の正の感情だ、
  君が望む限り時間は止まる、だが使い過ぎには注意する事だな
    君自身を蝕むことになる」
最初は信じられなかったが一度、止めてみて愕然とした。
あの男が何者だったか等、もうどうでも良いことだ。
俺は最強の力を手に入れた。
頭の中はこの能力をどう使うかでいっぱいだ。

試しに使って見ようと市場に向かう

夕方の市場は賑わっており、店の前では景気の良い声で宣伝をしていると、そこに一匹の黒猫がいた。

此方をずっと見つめていている。
監視されている様で気分が悪い・・・
良し、ちょっといたずらしてやるか!!

辺りを見回して使えそうな物を探す

あった、
屋台の親父が肉を焼いている鉄板。

『時よ、止まれ』

念じた瞬間、辺りの雑音が消え静寂な新世界が構築される。
俺は猫をつまみ上げると熱された鉄板の上に乗せた。
さて、あとは安全な所まで避難して事の行く末を見守るだけだ

数秒後、時が再び動き出した。
『にゃあああああ!!!!!!!!!!』
『うわあ!! 何だこいつ!!』

必死に笑いを抑えながら走りさる。
最高の気分だ。
もう誰も俺を止められない。
世界は俺の物だ!!!

私は珍しく激怒していた。
猫に変身して少年を観察しようとしたのだが.・・・
ああ・・、足の火傷がまだ痛む。

それから私は遠くからそっと観察する事にした。

それから、少年は私の願い通りその能力を自らの欲望の為だけに使った。
店の品物をごっそり盗んでいく事も少なくなかった。
嫌いな奴に会えば、時間を止め殴り倒して逃げた。

その繰り返しと能力の代価により彼の心は次第に黒く染まっていった。

私の好奇心が尽きる事はなかった。
彼には元からそういう要素があったのだ。
私はただきっかけを作っただけだ。

いや、彼だけではない、
人間すべてがそうなのだ。
きっかけがあれば簡単に欲望に呑まれる。
なんとも弱い存在だ。
だからこそ我々が存在できる訳ではあるが・・


明くる日、少年は泣いていた。
何日も何日も、涙が枯れるまで泣き続けた。
それは突然の別れだった。
彼の祖父が事故で死んだのである。
少年は一人ぼっちになってしまった。
その涙は孤独になってしまった悲しさに向けてたのか、
それとも祖父への喪失感によるものなのか
実際の所は私にもわからなかった。
ただ一つわかったのは
『彼を止めるものはもう何もなくなったと言う事』であった。

彼の変わり様は凄まじく。
その心を闇に堕落させるのも時間の問題であった

彼の祖父が死んで丁度、一ヶ月が経った頃。
一人の少女が尋ねてきた。
少年はその少女を覚えていない様だったが少女は祈りだけを捧げて家を後にした。
彼は彼女に強い興味を覚えたようであった。
それは遠い記憶の中の1シーン。
笑う女の子と自分
そのイメージが彼女と重なったからである、と少年が教えてくれた。
だが、詳しい事は思い出せないらしく
彼はそれが夢だったのか現実の事だったのかさえ判らなかった。

次の日、彼は隣町の教会へと赴いた。
私は『何故、すぐ近くにある教会にしないのか』と彼に尋ねた。
彼は静かに、『ここに来たらあの子に会える気がするから』とだけ答えた。

私は教会に入る事などできるはずも無く
彼の帰りを外で待つ事しかできなかった。


自分を突き動かす何か、
彼女に会えるという根拠らしき物は何もない。
だが、確信に似た何かがあった。

教会の大きな扉の前で一回、深呼吸をする。
心臓の鼓動が高鳴り
期待と不安が入り混じる。
俺はそっと目を閉じ、扉を開けた。

そこから聞こえてきたものは

『ゴスペル』

いや、何を歌っていたかなど気にもならなかった。
『誰が』歌っていたか、それしか判らなかった。
それで十分だった。
何処かで聞き覚えのある、清んだ優しい声が俺を包んだ。


そっと目を開け、前をみた。

そこには、彼女がいた。

胸の前で手を組み、目を閉じて凛とした顔で歌うその姿は
天使が舞い下りて来たような錯覚を与える。

そう、それはまるで氷が溶かされていくような暖かい感覚。
心の中の凍った部分が溶けて、じんわりと染み込んでいく。
この世にこんなに暖かくて優しい物があるなんて知らなかった。
世界が突然、眩しく見えた。

合唱が終わり彼女は目を開いた。
彼女の視界に俺がはいる。
彼女は微笑んだ。
俺に対して微笑んだのだ、などと自惚れた事を言うつもりはない。
だが、確かに彼女は微笑んだ。
俺は居ても立ってもいられなくなり、走って逃げ出してしまった。


教会から出てきた彼は走っていた。
行く当てもなく、ただひたすら闇雲に走った。
私には何があったのか判らなかったし、彼は何も言わなかった。
だが、『何か』があったのは確かだろう。
家につくなりベッドに飛び込み、枕に顔を伏せていた。

その日から彼は毎週の日曜日に隣町の教会に通う様になった。
教会の中で何が有るのか知る術は私にはなかった。
だが、私にも判る事が一つだけあった。
『少年は少しずつ変わり始めた。』
その変化は又も私の好奇心を掻き立てる物であった。
彼が時を止めなくなったのである。
盗みも、暴力も、欲望も全て抑えていた。

これはどういう事なのだろうか?
何が彼のドす黒い感情を止めているのか?
果たして、彼は何を考えているのか?

私はこれを実験のように考えていた。
人間が自らの欲望に堕落する『きっかけ』を作ってやる。
そして人間が堕落する様を見届ける、はずだった。

その実験体として選んだのが彼である。
だが、彼は私の予想に反して欲望を抑えた。
私は大発見をした科学者の気分であった。
この少年の行く末を見守ろう。
この少年の物語の結末をこの目で確かめよう。
そう、私は思った。

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