下手男その3(5停止目)

 

合図のホイッスルに合わせて、プールに飛び込んだ。運動の中でも水泳は大の得意。
競争しようというつもりは特にないはずなのに、水に体を沿わせるだけで、体が
ぐんぐん前へ進んで行くんだから、得意というのは少しニュアンスがずれるかもしれない。
息継ぎの時にほんの一瞬だけ、青い青い空が目の前に広がるのが好き。夏の空は
濃くて高くて、なんだか強く、生きてるって感じられたりする。

アヤカが水に愛されていることは、誰が見ても明らかだったのではないか。彼女自身の
体の美しさもあいまって、水の中の彼女の動きは全てが調和している。ほんのりと
焦げ始めた細やかな肌が自ら、全てを赦して包み込む澄んだ水の感触と、
強さとけだるさを併せ持つ夏特有の空気の感触を全て拾い集めようとしているかのように。

彼女はきれいだった。

アヤカの体を今直接彩っているのは、空とも水とも似ていない、もうひとつの青を纏った、
たった双切れの薄布。それらはアヤカの体に占める面積もごく限られたものであるのに、
それよりさらに狭い範囲しか、アヤカの体を隠さない。アヤカの美しさを隠すことは
はばかられると、遠慮がちに、その肌に付き添わせてもらっているに過ぎないんじゃないか。

その証拠にアヤカの体は、アヤカが思う以上に、悩ましい。特に両乳房は、体の細さに
ギリギリ不釣合いにならない限界まで自らを磨き上げている。普段はしとやかにしている
それらも今はアヤカの意思を越えて羽目をはずしているらしかった。


アヤカは3度体をくねらせ、彼女と癒しあう全てに礼を告げ、今もうダンスを終える。
喧騒のうちのひそやかな静けさに浸りながら体の中を奔るリズムを整えて、水に別れを告げようとした刹那

水の怒号が起こる。何か大きなものが叩きつけられたことを、空気が耳に直接知らせる。
ただ飛び込んだ音ではない。それは受け入れられていない。それに、ホイッスルの音がない――
みなの視線に従って振り向くと、ホイッスルを吹く教師がプールに転落したようだった。

大丈夫かな、っていうか、何があったんだろう…

それは、アヤカにとっては間違いなく、致命的だった。数秒という、長すぎる時間、その感性の全てを
ささやかな悪意に奪われてしまっていたのだった。

彼女がそのことに気がついたのは、ようやく彼女の左足がプールサイドについたそのときだった。
アヤカの体の美しさを引き立て、自らの存在を隠しながら彩る役目に徹していたはずの、下の布が、
彼女の太ももに絡みつき、その自由の一部を食らっていたのだ。

この季節、いつもより小さめに整えられたアヤカの秘毛の一部始終も、その奥に眠っているはずの唇もその端まで、
今あっけなく、夏の空気に抱かれていた。

それだけでない。アヤカの体の中でもっとも自由にできない両乳房を統べていた上の布は、その姿を
消してしまっていたのだった。自ら形を整える力のあるアヤカの乳房に対して、ほとんど唯一といっていい
その役目が、果の乳首をあらゆる視線から隠すことだったはずだった。でもたった今、禁は破られていた。

アヤカは両手で体を包む間に、自分がダンスを踊る間のどこかの段階から、既に異変が生じていたことを
悟った。アヤカのあらゆるところが火照っている。その何もかもを隠すためにアヤカは水に再び体を沈めた。

水の中は淀み、視界が開けない。そこに姿を消した水着はなかった。それはまるで、今のアヤカの
ナカの様子を表しているかのようだった。

こんなことは今までたった一度もなかった。飛び込みのときなら気づくかもしれないが、そのときじゃない。
間違いなく、ダンスの途中のどこかだ。でも、あれだけ全てが秩序に制されていた中で、そんなことが
本当にあったのだろうか。アヤカが混乱していることを差し引いても、彼女の中に真実が現れることはないだろう。
アヤカは、自らが、いや、自らを含めた世界のほとんど全てが、30秒ほど凍り付いていたことに気づくことができないからだ。
たった一人の例外の男こそが、その真実を知っていた。

アヤカは正確には、4秒か5秒くらい、あの姿だった。その間に彼女を愛でた男は何人いただろう?多分
大体のヤツは教師のほうを見ていただろうからそう何人でもないだろうな。まあでも、それで十分か。
足らなければ、またどうにでもすればいい。


男はポケットの中のデジカメに手を添えたまま、皮肉な笑みを浮かべていた。

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