下手男(5~6停止目)

 

気分が悪そうに装って顔を隠していたけど、それは紅潮した顔を隠すため。
あやしいと思われちゃまずい。万に一つってこともある。教室に戻ると
すぐに机に突っ伏して頭を抱えた。落ち着け、落ち着け、落ち着け。

俯いたまま片腕で顔を隠しながら、さりげなく参考書を呼んでいるふり。
目だけで教室の入り口を見つめる。やばいな…まだちょっとドキドキする。

俺が仕掛けたいたずらに、あの女が気づいたらどんなリアクションをとるんだろう。
他人に話す?いや、それはないよな…俺だったら無理。信じてもらえる
わけがない。間違いなく変態呼ばわりだ。逆に、気づかなかったら?
そうだな…そのときは…おっと、きたぞ。


ははは…分かりやすいな、こりゃ。西山のスカートが、普段より明らかに
長いじゃない。漏れ出す笑いをこらえるのに必死だよ。マジで。やっべー、
マジ楽しい、コレ。明らかにテンション低いじゃん、あいつ。あれじゃあ何も
知らないやつにも疑われるって。分かりやすいなーオイ。

何気なくポケットに突っ込んだ手が、サラっとした感触のモノに触れて、
俺はほんの数分前のことを思い出した。

西山はいわゆる、いたって普通のかわいい女子高生だ。脚が細くて、
ミニスカートが群を抜いてやけにエロい、テニス部のアイドル。
普段の喋りから、男は女に飯を奢って気を配って尽くすのが当然だと
思っているタイプだってわかる。自分が美人ってわかりきってる女。
イタズラをやるなら、こういう女じゃなくちゃ面白くない。

西山の位置を確認する。定位置だ。廊下でつまらねーイケメンと
毎度楽しそうにしゃべっていやがる。あせるなよ、平静にやれ、俺。
いつもどおりだるそうな感じでトイレに入るだけだ。

トイレにはいって、さらに中の洋式トイレのドアを閉めた。そこで、
いつものように、ボタンを押す。

瞬間、ささやかに聞こえていた雑音のすべてが消えうせた。
急いでドアを開けてトイレを出る。30秒だ。余裕はあるけど、
油断はだめだ。何もかもがとまった廊下、教室、学校のすべて。
俺は左ポケットからはさみを取り出しながらつかつかと西山に歩み寄り、
おもむろにスカートをめくった。

まくれたまま固まるスカート。その下に隠れていた下着が姿を現す。白だ。
うわー、当たり前だけど、リアルにやっぱこうなんだな…
生で見るのははじめてだった。なんかエロ本だな。動いてねえし。でもだ、
ここで鼻血ふくのはさすがにかっこ悪いよ。クールにやれ。外道になりきれ。

パンツの腰の両横をハサミで切断して、引っ張るとスルスルとかすかな音を
立てて布切れが西山の太ももの間をすべり、俺の左手の中に納まった。
すぐさまポケットに突っ込む。ここまで10秒たってない。チラ見。

陰毛きた、キタわ。思わずにやけた。あと10秒以上余裕がある…
迷ってる暇なんかねえ。俺はしゃがみこんで同時に右手を彼女の脚の間に
沿わせた。思ったより毛が汚い…リアルなんてこんなもん?と思いながら
右手でその奥をまさぐる。

あった…おれはもう有頂天だった。それは何も拒絶しないで、
俺の中指を待っていたかのように受け入れた。

いや…だめだ。今日はこれまでだ。俺はどちらかといえばビビリ心に負け、
おそらく5秒ほどで指を抜き、左手でスカートのまくれ上がりを戻してやり、
ダッシュでトイレに駆け込んだ。

勢いよく個室のドアを閉めて左手の腕時計を見る。まだ動かない。
間に合った……いつの間にか息を止めていたみたいだった。俺が深いため息を
はくと、それがきっかけのように、ささやかなざわめきが復活した。

頭の中には何も浮かんでこない。俺はただ、俺のアレで汚れたのとにた
姿になっている中指を、息を切らせて、眺めていた。鼻の辺りに持っていく。
お世辞にもいいにおいとはいえない。感情がまだ素直に降りてこない。
興奮が邪魔してる。だがなにか、大きく誰かにうなずいてもらったかのような、
納得した気持ちだった。

俺は気分悪そうに個室のドアを開け、手を洗うと、俯き加減にトイレを出た。

俺は授業そっちのけで自分の左手をポケットの中で弄んだ。
ありゃあ…ヤバかったわ。なんというか、何もかもが愉快だった。
気を抜けば、30分くらい声を出して笑い続けてしまいそうな。

あの景色を思い出し、触角を思い出し、左手で心地よい
感覚を得て、俺はとにかく頭をそっちに回すことで手一杯だった。
顔はにやついていたろうが、関係ない。

コレどうするかな…下駄箱に放置するとかも、アリっちゃアリかな。
変態っぽくてさ、でもそれならリアクションみねーと面白くない。
それに…指紋が残ってる。警察が万が一この事件に気づいたら?

…いや、警察が動くとか、ないよな、ない。どうかしてんな俺。
でも、何しろ初めてだ。何をヘマしてるかはわからない。俺は古畑と
戦うイチローじゃない。優位を追求してようやくフェアだ。

長いのか短いのかもわからない自分会議の末、持ち帰ろう、と
決めた。金以外の初めての戦利品だ。


時を止められるようになって初めてやったのは、盗みだ。
金がほしかったのがまず第一だけど、それよりもとにかく、
ルイヴィトンの財布を得意げに後ろポケットから覗かせてる、
高木の野郎が気に入らなかったんだ。

ビビリ心から、最初は仕事の全てが終わってから15秒以上も待った。
当然その15秒は、そのときは長すぎて30秒とか1分どころにだって
思えなかったわけだけども…。そのときも俺はトイレに隠れていて、
時間が戻ってからようやくポケットの中の金を確認した。

6000円……まあでも、こんなもんかなあ?

そのときこそ、今回のように感情が降りてこなかったけど、
繰り返しているうちに大分なれた。そうだな、うちの高校中から、
10人くらいは盗った。盗みがはやってるなんて体育教師が言ってたけど、
まじめに探す気なんてさらさらないことも知っていたし、バレないと
知っていたし、何より盗みに対して罪の意識がまったくなかった。
どうせ親からもらったはした金だろ。

腐ってるかな?でもさ、そんなもんじゃね、実際。そこから先は、
ご存知のとおり。2ちゃんねるにはまって、最初は厨房の板を
びびりながら覗いていたのが、板をはしごして効率よく回るようになるのと
同じくらい、イタズラにたどり着くのは自明なことでしょ。

ぼんやりと明日のことを考えていた。生来のビビリのせいでか、
今回はたかが30秒のために一日くらいプランを練っていたわけだけども。
一度うまくいってしまえば調子に乗っちまうんだなコレが。だって今は、
サイコーにはじけてる。万一危険が近づけば、やめちゃえばいい。
やべー、最高にハイだ。そんなことを言ってる漫画を昔読んだ。


西山はというと翌日は、一見したところ、いつも通りだった。
彼氏に慰められたのか?勘違いってことにしたのか?でも
下着が一着なくなったのは事実だぜ?大事じゃないかよ。
強がってんのか?いや…そうじゃないと、面白くないよね。はは。

昨日は丸ごと持っていって、アレだ。じゃあ、もっと露骨にやりますか。
ビビリはもう昨日の1/10くらいになっていたと思う。


廊下で、相変わらずつまんない顔を装って、俺は腕で顔を
隠しながら教室の中をうかがう。今日は、席に座って、女3人と
楽しそうにハイテンションでくっちゃべってる。どうせ女だ、また
ろくに中身もねえおもしろくもねえことで爆笑してんだろう。あの気持ちは
一生わからないだろう。距離からいって、30秒なら、余裕だ。

そして俺は無音の世界に飛び込んだ。ここからはゆっくりできない。
急いで事前にチェックした一番広い道をくぐるように通る。到達まで、
5秒しない。楽勝かな。固まった西山があまりに無邪気な顔をしているので
軽く笑うと、落ち着いてイスの横にしゃがみこんで、右手でスカートを
まくった。

はーん、今日は水色ですか。意外と清純派?いや、でも16歳って
結局こんななのか。俺には女の気持ちはわかんねえ。イスの後ろから
左手を彼女の左側に回して、アレの横をつかみ、一気に、滑らす。

足の付け根のちょっと先までずらすと、勢いで彼女が少しイスから
浮いてしまった。この世界では俺が動かしたものは、そこで固まる。
俺が触れたら、紙を動かすみたいに簡単に動く。

体制のせいでうまく覗き込むことはできない。あんまり動かすのは、
ちょっと危ない気がするから、できるだけ浮かせたくはない。だけども、
今スカートがめくれあがってパンツが半分脱いでいる、見た目だけなら
モデル並の女がいるんだ。まだ、足りない。時間も10秒もたってない。

ポケットから出した右手の中指に、丸めたガム。薬指を先にやって
一日ぶりの、間違えもしない、あの感覚を取り戻す。クールダウン。
クールダウンだ。時間をとるな。中指を、少しだけ乱暴に、押し込んだ。

引き抜き、彼女の両肩を抑えてやさしくイスに尻がつくまでおろしてから、
スカートを丁寧に戻す。ちょっと時間かかってるか…でも焦って逃げて、
机をずらしたりしたら少々コトだ。証拠を残しすぎる。それはよくない。

右肩を進行方向に向けて進む。マズイ…気がする…色々触れてる。
結構動いてるかもしれない。でも今更だ。元の位置に戻れないよりは
マシだ。俺は廊下の目印の汚れに足を合わせて壁にもたれ、ポケットに
手を突っ込んだ姿勢に戻…ったとき、遠かった音が帰ってきた。

アブネエ…いや、間に合ってるのか…?俺は足元を見つめたまま、しばらく、
動けなかった。いや、せいぜい、1秒かそこそこだと、おもうけど。

横目で教室を見る。広すぎる。全部をすぐには確認できない、何箇所か
安全を確認するように視線を泳がせると、西山の所にフォーカスされた。
西山の顔が凍りついている。

きた…

俺は表情の変化をぎりぎりのところでかみ殺し、のそのそと教室に入っていった。
何を見るでもないように眺めながら、目の端で西山を見ていた。西山が
何か、苦しいことでもいっているのか、周りの女は、変と判断するには
いいすぎくらいの表情で、彼女の席を離れていった。なんて言ったんだ?いや、
…どう動く?彼女は…そうだよね、普通パンツを戻すわ。でも、気になってるだろ。
あそこのアレは。ならないはずがねー。

彼女はゆっくりと下着をスカートの上からまさぐって上げていた。で、7割くらい
あげたかと思うと、立ち上がり、やや早足で俺のほう、つまり出入り口に、
近づいてきた。

「あ、西山さんさあ?」

振り向いた彼女は、自分は気づいていたのかどうかしらないが、ほとんど
泣きそうなくらい青い顔をしていた。

「あ、ごめん、ちょっと急いでる」

俺がその後姿を目で追うのをわかっていたからだろう。読めてる。すぐそこにある
トイレには入らず、彼女は廊下の置くまで軽やかに走り、階段を降りて行った。

俺はつまんなそうな顔を作って席に戻り、机に突っ伏して寝たふりをした。
喜びと笑いの絶頂が漏れるのを隠し切るために。

やべー、まじやべえ。サイコウだよ、西山。

ふと、心地よくないにおいがした。やべ、洗ってねえや、中指。

翌日西山は学校を休んだ。でも残念ながら既にネタは思いついているんだね。
今日のネタのほうが大胆だけど、昨日のよりはずいぶん気楽だ。
ちょっとした小休止ってやつだ。頭の中で独り言をしゃべりながら階段を上りきったと
同時にポケットの中のスイッチを押した。

右手のバッグから手を離しても、そこで止まって落ちたりしないことはもう知っている。
速攻で廊下を走る。歩いてる姿勢でとまってるヤツがざっとみて、20人はいる。
飛び切りかわいくもないけどまあ、彼氏くらいはいそうな、なんて偉そうだけど、そんな
女が何人かいた。割と知らない顔も多い。

目をつけた女の横でスピードを落とし、肩をつかんで体が浮かないようにしながら、
スカートを捲り上げる。布はひらめきもせずに、空に掴まった。

次。また走ってさらに2人目、3人目、4人目…で俺は体を翻し、逆走して
空気に捕らえられたバッグがしっくり来る位置に体を固定し、待つ。バッグに
重さが戻ったことをきっかけに、俺も動く。

轟く悲鳴。意味もわからず慌ててスカートを抑えた女もいたけど、
めくれあがっているのを確認するには十分。っていうか、もうそんなことより、
この光景の全てが面白い。何が楽って、馬鹿みたいに笑いながら驚いても
不自然じゃないんだな。はは、変態かな、俺。

さて、問題は、俺の考えているとっておきのいたずらだ。コレをやったら、
相手が女なら、イタズラじゃ済まされないかもしれない。最低でも二度と
学校にはこれなくなるし、下手したら自殺ものだ。

自殺…それを思ったときに、さすがに思いとどまった。確かに酷いな。
そりゃあある意味俺が死刑を下したと言ってもいい。そこまでする気はない。
実際、自殺した高校生はそんなことをDQNからされていたんじゃないか。
それと同類ってのは、どうにも酷すぎる。

それにさ、貴重なオカズガいなくなるってのも寂しい。
動揺して隠し切れないかもしれない。止める要素は山とある。

けど、今日やったことと同じくらい、それをやるのは簡単だ。しかも一人なら。
3秒ですむ。スカートとパンツを一緒に下ろして、「戻さないだけ」なんだから。

掃除の時間にやれば、目撃者が5,6人はいるので、容疑を分散できるし、
逃げ場所はいくらでもある。それとも逆に、2人しかいないときを見計らってやるか。
そうすれば、自殺ってのは多分浮かばないだろう。俺を疑えないように
色々配慮しなくちゃならないが、そうしたらやりようによっては、もっと面白いことが
できるかもしれない。だが、リスクもある。西山が何を考えるかは読みきれない…

さて、どうしたもんかな。

あの二日はなんだったんだろう…

家に帰って何度も確認したけど、下着がひとつなくなっていた。おかあさんも
妹も知らないっていうし…それに、その次は…パンツを半分ずらされてただけでなく、
ガムがあの…あんなところに入っていた。

誰かがやった悪戯?いや。どう考えたって無理やり下着脱がされたら気がつくでしょ。
自分が無意識のうちに?考えたくないし、第一他は説明できてもガムはどうしようもない。

1週間以上たったけど、あれからは何もない。
気にしなければいい?それにはちょっと不可解すぎ。
超常現象にしては、なんだかスケール不足。

考えながら、自分の腰の辺りを触るのが癖になってしまった。
今は、ちゃんと穿いてる。あるじゃん。

…やっぱり考えるのはよそう。塾の勉強も残ってるのに余分に時間とっても仕方ないや。
どうせ何もわからない。下着はまた買えばいいや。かすみは再び参考書に目を落とす。

図書室。窓際。夏の日差し。クーラー。それに、ipodから流れるエンヤ。
心地よい具合に体を伸ばしてリラックスできれば、頭もよく回るもの。

学校の図書室には人があんまり来ない。特にテスト期間を抜けた今だからなおさら。
今日も多分このまま自分ひとりだろう。適当なところまで進んだら、ちょっと早くても
鍵をかけて帰っちゃったって、誰にもしかられたりしない。今日は鍵を持っているのは自分だけ。

図書委員ってゆるくていいな。涼んで好きなことしてればいいんだし…


自分の体の震えで、かすみは目を覚ました。いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
夕べ徹夜だったからなあ…無理しすぎたかも…てか寒いし…
図書室の冷房にもタイマーつければいいのにさあ

袖先から生えた細長い指で眼を軽く擦り、冷気を止めようと立ち上がろうとして、
震えの本当の正体を知った。文字通り、凍りついた。

スカートがない。そして、下着もない。


かすみの姿は、へそから上と、ふくらはぎから下しか覆われていなかったのだ。

それにシャツのボタンは全部取り払われていて、大きめに育ってしまった乳房を包み込んでいたはずの
ブラもまた、そこになかった。思わずイスに座り込みシャツの裾を引っ張るが、彼女の秘毛には全く届かず、
両手でようやく影を作れるくらいだった。目を見開いたまま辺りを見回す。誰もいない。時計を見る。
9時4分。彼女は右手を離し、隣の机の鞄を覗く。携帯!彼女はどうすればいいかもわからず
ソレを手にするが、すぐにその希望も打ち砕かれた。バッテリーが外されていた。

彼女の手から携帯が滑り落ち、木の床で弾んで音を立てる。やけに大きく。

ど…どうしよう……どうなってるの……?

ゆっくりと動き出した感性。彼女は確信した。遅かったかもしれないが。
明らかにソレもコレも、何者かの、強烈な悪意によるものだってことに。

9時を過ぎたら学校のあらゆる鍵が閉められること。図書室は校舎から独立しているから、
外から鍵がかかっていたなら、警備員も中を確認しない、できないということ。携帯がなくて
助けを呼ぶこともできないこと。

かすみは戦慄した。

満月が憎たらしいって思ったのはきっと生まれて初めてだよ…

夜のルールがよくわかる。少しでも暗いところを選んで歩く。かすみの脚が
地を離れるたびに、普段手と脚で感じている熱の絡まりを、今は体中に
染み渡らせていた。霧のシャワーを浴びてるみたい。残念なことに、
かすみは少しだけ心地よいと感じてしまった。

バカ…早く野球場のバックネットまで行かなきゃいけないのに…

図書館の扉の内側に画鋲で軽く止められていたA4用紙に印刷されてた文面はこう。
野球場のバックネットの裏に、スカートとバッテリーを置いておきます。

うっすらと罠だろうなとは思ったけど、ソレを信じる以外にわたしは何もできない。
でも多分、悪意はスカートを返す確率は高いと思う。3つの事件の全てが、
敢えて対処できるようになっていたから。わたしを本当に辱めたいなら…最初から
そうするはずじゃない?本当に些細な失敗やアクシデントで崩れるとはいえ、
実際にわたしはどうにかして、わたしのなかでそれを収められたから。

ゲームのつもりか何かでなくちゃ、こんな回りくどい真似はしない。

少なくとも…そう信じなきゃやってられない…今は無駄なことなんて考えてられない。
もしも…もしもまだ学校に人がいたりしたら…



ひときわ大きな風が髪の毛と、閉じる力を失った布地が体を離れ、わたしの胸の先を
くすぐる。二の腕に絡まるシャツを、必要以上に必死に胸の真ん中に押し付けた。
鼓動は、まだ静まらない。バッグで隠せるのはフツーの視線だけで、夏の重みを増した大気に混じった
誰かの目の前には、無力だなあと感じられた。全身をくまなく舐め上げられているようで、
幾重に折重なったわたしのナカの揺らぎに、ちょっと涙が出そうになる。

一周600とかあるんだっけ?トラックって。どっちにしたって、その対角線の端にバックネットはある。
建物の端にかがみこんで見やると、その遠さになんだか眩暈がしそうになる。迂回しても、トラックの端は
道路で、境はフェンス。ここから先は、本当に360度、私を、気休め程度にも隠してくれるものがないってこと。

ここを…走れって事?

ありえない、ありえない、ありえないよぉ…そんなの…
本当に誰も見てないかどうかなんてわからないじゃん…

流石に、気持ちが折れそうだった。でも、ユッキーも、真由もアヤカもここにはいないし、
特にユッキーには、自分がこんな格好で外にいるなんて死んでも見せられないよ

さっきにもまして、あたりを慎重に見通した。車は時々通るけど、電気がほとんど消えた校舎のほうを
ドライバーが向くことは、多分あんまりない。バラックの部室も、どうやら電気も消えているみたいだし、
音も気配も感じ取れない。

…やるしかないよね…

かすみはバッグを置き、低い姿勢で、飛び出した。多分、30か40秒くらいで、つける…かなあ…
全力疾走なんてもうぜんぜんしてないし、スタミナも無いし、でも走らなくちゃ自分の首が絞まるだけ。
やるしかないなんて、わかってるよぉ!

速さはともあれ彼女は、とにかくバックネットを目指して全力で走った。走った。走った。
姿勢はどんどん崩れ、シャツは再び二の腕にまといつき、風を受けて勢いよく持ち上がる。
半分も進まないうちから、息が切れ始める。左胸を抑える。こんなに早く心臓がリズムを刻む夜は
金輪際いらない。ローファーを脱げばよかった、微妙な空間を見つけてカパカパと音を立てて
脚から離れてはまとわりつく。

半分くらいに進んでいたときは、もうほとんど歩いているのと一緒。
頭が自然と落ちて行く。どこまでも無常に続く砂が無表情に澄んでいる。
心臓が必死で流している赤いものは、
肌の近くを完全にシャットアウトしていた。
そしてそれが、その走る姿勢と走っているという事実そのものが
かすみに駄目押しをしたのだった。


!?

意識がとんでた?霞は前につんのめって倒れる体と顔を、ギリギリ両腕で守った。
目の前が火花と闇。痛いし…痺れを抱えたままゆっくりと体を持ち上げたとき、
かすみは、またもや、戦慄した。それは今まで異常の謎と、悪意と、絶望に満ちていたのだ。
闇があけたかすみの両目に映った大地は、砂ではなかった。

アスファルトだったのだ。飛びのくように光を広く取る。
そこは、トラックの真ん中ではなかった。
彼女の位置は、真ん中の端……運動場の「外」。

つまり長方形の運動場の対角線上でなく、
まさにその輪郭の線の真ん中ほどに、彼女はいたのだ。

ハア?なにこれ、ちょっとまって、蜃気楼?それとも、あたしどうかしちゃってるの!??

立ち上がると、雫が敏感なところをまた素っ気無く、
それともそれさえも悪意に味方するかのように、
滑るのを感じた。汗の量じゃない。彼女は唇に指先をあてがう。
濃いカルピスの匂い。彼女のお尻のあたりから内股を潜り抜けてひかがみのところにまで、
うっすらと白い乳液が染み渡るのを待ち焦がれ、透明な色を浮き出していた。

感情はベクトルを完全に失っていた。ただただ、暴れるばかり。

バックネットは、図書館から見たときの何十分の一にも小さく見えた。
鼓動は、さらに高く打っていた。

時間にして、わずか十数分の夏の夜と、砂と、悪意と、
それでよごされた何もかもを洗い流す湯に隠れて、
かすみはただ泣いた。泣いた。それはなんのために流されたかは、
もうかすみにもわからない。

涙はもともと体の傷を洗うために、痛いときに瞳から溢れるのだという。
涙で洗い流すには、今夜の屈辱は、大きすぎた。お気に入りのボディソープの香りも、
彼女を癒すに不十分だった。

でも今かすみは、今度は間違いなく自宅の、風呂場にいた。
それでもかすみは、どこか、信じられなかった。気がついたら、
またあのアスファルトの上で、座り込んでいるのだろうか。

かすみは、考えるのをやめた。けれどひとりでに浮かぶ海馬の記憶は、
簡単に抑えられるものじゃない。
ただ解き放たれたくて、涙は流れたのかもしれない。

散らかりっぱなしの部屋の隅で妖しく光るディスプレイに、全裸でほとんど四つんばいの少女の
バックショットが浮き上がっている。3秒して、少女の体に白い領域が生じる。
喪沢は、正直笑うのすらもうめんどくさかった。

まあ、バックネットに気落ちが固まれば、図書館の入り口と正反対の壁と茂みの間に人が隠れてるなんて
思いもよらないわな。喪沢善臣は彼女が力尽きて視線をバックネットからはずしたときに時間を止め、
重さを失った彼女を抱えてアスファルトに乗せて、撮影と、簡易的な陵辱を加えた後に、その背後に
向かって全力疾走した。彼女は起き上がって状況を理解して後ろを振り向くまで5秒は上乗せされて
逃げる時間に費やせるのだから、またもや楽勝だった。


一日に2回使ったから、明日は使えない。二度実験した結果そうだった。
まあ、とりあえずさし当たってやりたいことはやった。あともう二つくらい達成したいことはあるが、
誰に、どんな方法でやるかまではまだ考えてない。黒いシーツに体を倒す。

とりあえずサイコウの一日の思い出を肴にして明日はやり過ごすことにしよう。
喪沢も少し疲れていた。真鍋アヤカがそういえば小顔でやたら巨乳だったことを思い出してすぐに、
彼の意識も夜に落ちていった。

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