熱暴走763(ゴメス)その6 (38停止目)

道化師の朝の詩

 

僕は登校する前の一時間、駅前のいつもの場所に座り込んでいた。
道行く人の視線が冷たい。
朝の空気が僕に突き刺さる視線を一層冷たく感じさせるが、しかし僕にはどうでもいいことだった。
こんな時間から汗を濁濁に流しながら電車に間に合わないと小走りをする太ったサラリーマンがいた。
唇が厚く、少しタコのようになっており、その隙間から並びの悪い前歯が見えた。
肌も小汚い。
目に覇気もなく、ただ毎日を自分に言い訳しながら生きているような人間と推測される。
僕は彼とは違う。
違うハズだ。
僕は彼よりもきっといい人生を送れる。

まるで、僕だけが空高くに浮いて、全てのものを見渡しているような感覚。
僕はその感覚がたまらなく心地よかった。
誰からも傷つけられない。
そして、誰かを傷つけなくてすむ。
例の太ったサラリーマンが小さく見える。
彼が小走りして電車に駆け込み、失敗する姿が目に浮かぶ。
小さな彼がそういう漫画の一シーンのような場面を演じるのを傍観するのは、まるでアリをアリジゴクに落として遊ぶ感覚に似た楽しさがあった。


サラリーマンの反対のホームには、綺麗に着飾ったOLがいた。
きっと顔立ちと体格と収入の良い上司にアプローチでも仕掛けるのだろう。
上司にはきっと妻がいる。
それでも体だけの関係を保ち、結果、上司にいいように捨てられるのだろう。

OLの並んでいる列の一番前には、派手で趣味の悪い格好をした老婦人がいた。
きっと学は浅く、そのくせ虚栄心だけは強いのだろう。
電車の中で仲間の老婦人を捕まえては、孫のそこそこの学歴をおおっぴらに自慢するに違いない。
そして、誰にも心配をかけられずに、一人老人介護施設で死んでいくのだろう。

老婆の左手の方向に、いかにもアニメばかり見ていそうな顔つきの眼鏡の男がいた。
その手の友達がいたら、周囲の視線も気にせずに大声でその手の話を始めるのだろう。
彼にはきっと「格好をつける」なんて意識はない。
いや、すでにその事自身を格好いいなんて勘違いしているのかもしれない。

スラっとした、顔立ちのいい清楚な女学生がサラリーマンの向こうからこちらを見ていた気がした。
まるで、僕の好きなあの娘のような・・・。
僕のことが好きなんだろ?なんて想像するが、口にはださない。
出せるはずも無い。

言われなくても分かっている、それが非常に自分に都合の良い妄想であることは。
さっきのサラリーマンだって、本当は誰もが知る会社の重役で、部下から厚い信頼を得ている上、女子社員からはモテモテであるかもしれない。
さっきのOLだって、本当は仕事がバリバリにできて、その上すでに信頼できるパートナーを選んでいるのかもしれない。
さっきの老婦人だって、高い知性と高い教養を持ち合わせて、感性が豊かで温厚な婦人かもしれない。
さっきの眼鏡男だって、本当はその手に話には興味なんてサラサラなく、しかも一般的に見てモテる部類の男たちと毎夜のようにツルんでいるのかもしれない。
この女学生だって、僕のことを嫌悪の目で見ているのかもしれない。
それを確認するのは怖いし、誰かがやっていることを見たことがない。
人が溢れかえって、しかも人と人とのつながりが希薄なこの場所でその行為をするというのは、犯罪を犯すことに同義である。

しかし、都合の良い妄想をしなければ、僕は押し潰されてしまうだろう。
だって、都合の悪い妄想をすれば、地球上の誰もが僕を殺そうとしてしまう。
宇宙に比べて、僕らはみんなちっぽけだ。
きっと、宇宙に意志があるとしても、僕なんて気にも留めないに違いない。
僕が死んでしまっても、人類が絶滅してしまっても、宇宙は痛くも痒くもない。

考えれば考えるほど、僕は虚無感に苛まされる。
感情が何を源泉としているのかは知らない。
ある人は、僕らの意志が神の宿る精神の深淵から来ると言う。
またある人は、それが脳内の化学反応の一端に過ぎないと言う。
情報を入力され、演算し、そして新たに出力する脳という機関が機械的に行っている作業の成果として感情があるならば、僕の感じている虚無感すら、むなしいものだ。
きっとパソコンが行っていることとそこまで違いはないのだろう。


しかし、妄想するだけなら自由だ。
口にさえ出さなければ。

思えば、子供の頃からそうだった。
「もっと考えている事をハッキリと言いなさい」と親から躾けられたが、あれは世界のついているウソだ。
考えていることをハッキリと言えるワケがないではないか。
誰だってそうだ。
そんなことしたら、世界中いたるところで殴りあいの喧嘩が起こってしまう。
そうなることが分かるから考えていることを言わない。
それが大人ってもんだろ?

そろそろ学校へと行かなければならない。
僕は定期券を改札に通し、全蔵門線中央森上行きの電車に乗る。

「え〜、ぁまもなくぅ〜、ぁふたこまるかわぁ〜、ぁふたこまるかわでございます。」
ふたこまるかわに近づくと、電車は地下鉄から地上へと出てすぐに高架線へと移り、そしてそのまま駅に出る。
きっと、朝の日差しが僕たちを容赦なく襲うのだろう。
地下鉄の壁の黒さは、窓に映る僕の顔を無機質に映し出している。
不愉快な電車の通過音が、トンネルで反射されてより一層大きく響き渡っている。
この窓から見える何も無い光景は、まるで今の僕の周りの世界のようで、嫌いだ。
醜く広がる不愉快な世界。


「自分から何もしなければ、世界は変わらないよ。」とテレビはよく言っている。
ウソだ。
僕は何もしなくても、僕を取り囲む世界は時間の流れと共に変化していっている。

先日、久野に彼女ができたらしい。
それから、僕は久野と話すことはあまり無くなった。
前はあんなに話していたのに・・・。
体育の深海が来月結婚するらしい。
相手は元教え子で、しかもできちゃった結婚だそうだ。
教師は口では何とでも言うが、現実はそんなもんだ。
今まで2年と3分の1ほど全く勉強をする気配がなかった田辺が、最近になって図書館に入り浸っている。
もうすぐ受験だろ?それより、お前は大丈夫なの?と、逆に心配されてしまった。


「自分から何もしなければ、世界は変わらない。」という命題が正しいなら、その対偶である「世界が変われば、自分が変わってしまう」という命題も正しい。
これもウソだ。
僕は世界が変わっていても、何も変わっていない。
ちっぽけなまんま、ただそこに存在している。
まるで、僕と僕の存在だけが時間を停止してしまっているように・・・。

電車の音が一瞬で消えて、周囲のざわめきがシーンと静まり返った。
耳が痛みを感じるほどの静けさが、電灯のついた暗い空間を支配していた。
出入り口のあたりで話していた女学生の集団は、表情をとどめたままピクリとも動かない。
世界が凍りついた。
ここを写真の中の世界とするなら、唯一、僕だけが写真の中で蠢いているのだろう。
無機質で剛体的な人々は、永遠にその格好のまま、暗闇の世界に存在し続ける。
僕が何をしても、世界は何も変化しない。


この暗黒に包まれた、孤独の世界。
その世界では、僕は絶対的な存在だ。
この世界に、僕はただ一人、変化を許された存在なのだ。

僕は思ったことを口にできる。
なぜなら、僕以外の人間が僕の言葉を聞けないからだ。
誰も殴りあいの喧嘩なんてうってこない。
一緒に乗っていたサラリーマンを「この油デブ!何ニヤけんだよ!」と罵っても、誰も傷つかないし、怒らない。
しかし、この世界で僕は生命を謳歌し、存在を存分に主張することはできないことは容易に想像できた。
そして、存在することの定義が「周囲になんらかの変化を及ぼすこと」であるならば、僕は存在すらしていないことになる。
ただ、凍結した絶対零度の世界がそこに存在しているだけである。

急に母の作る手作りパンが恋しくなった。
しかし、母はたぶん世界と一緒に凍結してしまっている。
久野も。体育の深海も。やっと勉強をする気になった田辺や、僕が好きなあの娘だって。
もう、僕には話し相手がいない。
僕は、変化を望んだ。
傷ついたっていい。
このまま凍結した世界の中で、僕まで熱的死を起こすよりマシだ。

気がつけば電車は、ふたこまるかわに止まる直前の、地下から高架へと移る橋にさしかかっていた。
周囲の木々が緑色に萌え上がり、風が木の葉をゆすっていた。
そこに太陽が光をさし、萌え上がる命を美しく輝かせている。
川からは朝日の照り返しがあって、黄金色に車内を染めていた。
車内には相変わらず例のサラリーマンが汗をじっとりと浮かべて何かに笑っていて、その照り返しを極度に嫌がるしぐさを見せた。
なんて残酷で、なんて美しい世界なんだろう。
この瞬間にも滅び、そしてまた生まれ、二重螺旋と共につながってゆく生命。
その全てが僕を祝福してくれた気がして、僕は僕ではない何かに向かって感謝した。

inserted by FC2 system