763(ゴメス)その2 (34停止目)

ケース2  奥寺 圭吾 と 西谷 恭子 の場合

 

「人類は小さな球の上で、・・・」
クラスメイトの西谷 恭子が詩の朗読をしている。
俺は朗読を聞き流しながら西谷を見ていた。
長い髪を書き上げる仕草は、どこか気品を感じさせる。

「どうしよう、奥寺君・・・。私、誰にも気づかれないうちに死んじゃうかも・・・。」
普段は強気な西谷が、弱気な態度を俺の前で見せたのは、そんなに遠い過去の話じゃない。


元々デンパなことを言う少女ではあった。
「昨日、私の前にアニタ(何者かは分からない。きっと、西谷の中の世界の住人)が来て、「愛してるよ」って言ってくれたの!」
とか言って朝から狂喜乱舞したり、
「これはアニタの友達を呼ぶために書いてるの!あんまり見ないで!」
とか言って美術のノートに変な魔方陣のような図を描いたり。
だが、決して弱気になることはなく、ましてや「死んじゃうかも。」などとは決して言わない人種であった。

そんな彼女だが、運動神経は抜群にいいし、学校の成績だって学年でもトップクラスだし、何より美人だ。
入学時の運動部の勧誘は凄まじかったらしく、西谷の席の前に各運動部の主将が列を成していた時期もあった。
だが、どういうわけか「アニタが運動部には入っちゃいけないって言ってた」というデンパな理由で、西谷は音楽同好会なんてものに入っている。
時々、音楽室から、それは見事なショパンのエチュードが聞こえてくる。
あれはきっと、西谷がアニタのために弾いてるんだと思う。
「アニタがね、この曲気に入ったって言ってたから・・・。」
と言って音楽の授業でピアノに向かって延々とそれを弾いていたのを俺は覚えている。

さて、そんな少し変わった西谷だが、何せ言動が言動である。
そんなにお近づきになりたがる男はいなかった。
いや、一部に熱烈なファンがいたらしいが、彼らのことをアニタは見抜いていたらしく、
「ごめんなさい、私にはアニタがいるの。」
と言って、彼らが彼女に告白する前に全部断ったらしい。
そんな西谷なので、下校時に人間の男と二人で歩いているのを俺は見たことがない。
女の子ともあまり行動を一緒にはしないが、それなりの社交性はあるらしく、不思議といじめられたりする事はなかった。
普通ならそんなデンパちゃんは一部の女子にいじめられるものだが。
というわけで、学校側としても彼女のデンパな言動にはそこまで突っ込まないことにしていた。


「奥寺君、どうしよう・・・。アニタが最近変なこと言ってるの・・・・。」
そういう風に西谷が俺に話しかけたのは、一番最近あった席替えで西谷の席が俺の真ん前になった直後のことだ。
「アニタが、『恭子、お前はこれから僕と二人きりで暮らすんだよ。そのための準備をしといてくれ。時間は一ヶ月あげる。』
で、私聞いたの。『それって、どういうこと?』って。
そしたらね、『僕が恭子の時間を止めてあげる。そしたら、僕と恭子は誰にも邪魔されずに永遠に二人きりで暮らせるよ。』ってアニタが言うの。
私、イヤよ。確かにアニタと二人きりになるのはいいけど、私、まだやりたい事がたくさんあるし、それに時間が止まるってことは、どういう事が起こるか分からないけど、怖いんですもの。それに、私、s・・・」
取り乱したように西谷が言っていたので、
「分かった、落ち着けよ。」
と俺は西谷の肩をポンポンと軽くたたいてたしなめた。
西谷からはすごくいい匂いがした。
その匂いに俺は少しドキっとしたが、それから自分を戒めて、
「ところで、前から気になってはいたんだが、アニタって何者だ?」
と俺は聞いてしまった。
「アニタ・・・アニタはアニタよ。」
西谷は、下を向いたまま言った。それから、
「どうしよう、奥寺君・・・。私、誰にも気づかれないうちに死んじゃうかも・・・。」
と、恐怖に震えて言ったのだ。

それから、その日の西谷はうつむきっぱなしだった。
クラスの女子は、そんな西谷が心配だったらしく、「大丈夫?」と声をかける者も少なくなかった。

次の日、西谷はいつもとなんら変わらぬ様子で登校した。
俺は昨日のことが気がかりで、昼休みは西谷の方を時々見ていたが、
「だめよ、それはアニタの分なんだから。」
と言って、女友達が食べようとした、西谷の弁当箱に残ったミートボールをデンパな理由で死守する西谷を見て、とりあえず安心した。
それで、掃除時間が終わったあとの休み時間、西谷に
「アニタは何か言ってたか?」
と軽い気持ちで聞いてしまった。
西谷の表情が曇った。
それから、
「アニタは・・・どうしよう、あたし、アニタが分からない。
アニタはね・・・。私が小さいころから、アニタは家にいたの。
アニタは昔っからわがままで、よく喧嘩もしたわ。
でもね、その分よく一緒にお話もした。
いろんな話をしたわ。
でね、アニタは私が困ってると、必ず何かしら教えてくれるの。
でも、何でいきなりアニタがあんな事を言い出したんだろう。」
という感じだった。

次の国語の授業では、そんな弱気な西谷はどこかに行っていて、詩の朗読があてられても、堂々とした態度で読み上げていた。
ああ、そうか。
普段、俺たちが見ている西谷は、本当の西谷じゃない。
西谷は、きっと演じているんだ。
俺にはそのことがはっきりと感じられた。

「奥寺君、アニタはあと3日だって言ってたわ。」
そう西谷が言ったのは、4日前のことだった。
「どうしよう、私、アニタが怖い・・・。」
初めて、西谷がアニタに恐怖を感じていた。
「西谷、よく考えろ。アニタなんて、お前が勝手に作り出した妄想だろ?」
俺は、みんなが普段口に出して言わないことを言ってしまった。
そうだ、西谷の言うアニタなんて、西谷が勝手に妄想してるだけだろう?
それは、誰の目から見ても明らかだ。
精神病院に行ったら、まず間違いなくそう診断される。
「違う!アニタはちゃんといる!ただみんな知らないだけよ!」
西谷は大きな声で言う。
一瞬、教室がその声で凍りつく。
が、また平穏な空気に戻った。
一部、奇異の目で西谷のことを見ているのを感じた。
「奥寺君、ねぇ、信じて。アニタは、3日後に私を時間に縛り付けるの。
そしたら、私、アニタ以外の動かない状況で永遠にすごさなきゃいけないのよ?
私、怖いの。だって、その世界では、私とアニタ以外が存在しないのよ?
そんな寂しい世界、私、行きたくない・・・。」
西谷は声の調子を落として言った。
しかし、西谷の妄想はとうとうここまで来たか・・・。
そろそろ、病院に行ったほうがいいんじゃないだろうか?
しかし、俺は西谷のいい匂いのする長い髪に免じて、先生や他の誰かに西谷の今の状況を言うのはやめることにした。
多分、独占欲かなんかだと思う。

次の日、西谷は学校へ現れなかった。
「奥寺、昨日あのデンパ西谷と何話してたんだ?」
クラスの男子の一部が聞いてきたが、俺は
「ああ、何かアニタが恋しいんだってさ。」
などと適当にごまかした。

その次の日も西谷は学校へ現れなかった。
学校の靴箱を開けると、手紙が入っていた。
「放課後、教室で待ってます。 西谷 恭子」
ラブレター?
少しうれしかったが、何せ手紙の送り主が西谷だ。
それに、その日は西谷が言っていた、アニタが西谷を縛り付ける日。
まぁ、西谷が俺に対して敵意を持っているわけではなさそうだが、妙な期待はしない方がよさそうだ。

西谷は教室には姿を現さなかった。
いつもは無遅刻・無欠席の西谷が二日連続で休んだもんだから、明日は竜巻でも起こるんではないか、と一部のバカな田中がバカなことを言う。
だが、俺の靴箱に入っていた、「放課後、教室で待っています。」の手紙。
最近、西谷と頻繁に話すようになった俺への当て付けの可能性も否定はできないが、俺は西谷本人が書いて靴箱に入れたものだと思う。
筆跡は、西谷のものとみて間違いないから。
西谷は、実は学校のどこかにいるのではないか、と勝手に想像して、休み時間に学校中をくまなく歩いてみたが、それらしき人物は見当たらなかった。
そして、放課後がやってきた。


俺は、学校がひけたあとは、ソッコーで家に帰るなり部活に行くなり塾へ行くなりをする人種の人間だ。
だから、放課後の教室にこんなに生徒が残って無駄な時間を過ごしていることを知らなかった。
「おい、奥寺。お前、今日残ってるなんて珍しいな。」
バカな田中が話しかけてくる。
「ああ、ちょっと今日は学校で勉強したくてな。」
俺はおもむろに数学の課題を出された問題集を開き、解き始める。
「ふーん、お前、変わってるな。」
そういうとバカな田中は、廊下で屯している男子の集団に加わって、何が面白いのか分からない話でゲラゲラと大笑いしていた。


教室の時計が五時を回ったのは、ちょうど俺が出された課題を解き終えたころのことだった。
気がつくと教室に残っていた生徒は帰るなり部活に行くなりして、ほとんど消えていた。
隣のクラスからやってきた最後の生徒が消える。
俺は一人、教室でただ時間をつぶしていた。
西谷はまだ現れない。
もしかしたら、ホントにラブレターが偽者で、誰かが今ごろどこか俺の見えないところで笑いを必死にこらえているのか、という疑問が頭をよぎった。
そんな時、西谷がひょっこり現れた。


「奥寺君、来てくれたのね。」
西谷が少しうれしそうに言う。
「で、何の用だ?」
俺は西谷に聞く。
西谷は、いつものデンパモード丸出しの時とは少し違う、しおらしい感じでうつむき加減に答えた。
西谷が普段からこんな感じだったら、今頃校内でも1,2を争う美女になっているだろう。
「アニタが私を連れて行くまで、一緒にいてほしいの。」
西谷は多分、顔を赤らめていたんだと思う。
だが、その瞬間に夕日が教室に思い切り差し込んできたせいで、よくは確認できなかった。
「だから、アニタってのはお前の頭の中の住人だろ?」
俺は少し間をおいて言った。
少し間をおいたのは、西谷が一緒にいたいと言ってくれて内心ドキドキしているのを隠すためだ。
「違うわ、アニタはいるの。でも、それはもうどうでもいい。一緒にいて。お願い。」
俺は、頭をかくと、しょうがねぇなぁ、という感じの演技をして、西谷の手を握った。
それから、教室の黒板の下のスペースに、隣り同士、座り込む。
西谷と肩が触れ合う。
長い髪からはいい匂いがした。

「奥寺君、初めて話したときのこと、覚えてる?」
「ん・・・と、確か・・・1年の音楽の授業の時か。」
「そう。奥寺君、私がショパン弾いてるのを見て、『へぇ、ショパン弾くんだ、すごいね。』って言ったわ。」
「そんなこともあったな。で、お前の返事といえば・・・。」
「『アニタがこの曲気に入ったって言ってたから。』」
「そうそう、それそれ。でも、お前すごいよな。よくあんな難しい曲弾けるよな。」
「練習したもん。それに、奥寺君がすごいって言ってくれたから、私、はりきっちゃってあのあともっともっと練習したわ。」
「そうか、それで時々音楽室からショパンが流れてくるのか。」
「そう、あれ、私が練習してるの。」
「はっは、すげーな。」
「・・・。」
「・・・。」


しばしの沈黙。
やがて二人はお互いの顔を見つめあう。
「こんな感じで俺と見詰め合って、アニタは嫉妬しないのか?」
俺は冗談半分な感じの、でも西谷にしか聞こえないような小さな言う。
「多分、嫉妬するわ。でもいいの。私、決めたんだよ。」
西谷は何を決めたのかは言わなかった。
やがて、西谷は目を閉じた。
心臓がドキドキした。
恥ずかしい話だが、こんなにクールぶっていた俺の下半身はこの生まれて初めての緊急事態になぜかパニックを起こしたらしく、全身を硬直させて来るべき事態に備えていた。
やがて、俺も目を閉じた。
暗闇が俺の前に広がった。

俺の感覚では西谷の唇に触れるか触れないかくらいの場所に俺の唇が来た瞬間のことだった。
不意に、大きな音をたてて教室の後ろの扉が開いた。
何者かが乱暴に扉を開けた音だ。
俺はびっくりして目を開け、教室の後ろを見た。
その瞬間、俺は背筋を何かすばやい虫が通り抜ける感覚に襲われて、キョトンとしてしまった。
そこには、人間の姿をしていない何かがいた。

何だ、こいつは?
人間?
俺たちを襲う気か?
俺の頭はパニックを起こした。
その時、西谷はすでに目を開いてその何かを見ていた。
「・・・アニタ・・・。」
西谷がつぶやいた。
こいつがアニタ・・・俺にも見える・・・。
そうか、アニタは本当に存在したんだな・・・。
ああ、西谷は、別にデンパ少女でも何でもなかったんだな・・・。
俺の頭は思考停止に陥っていた。


西谷は立ち上がると、アニタの方へと歩み寄る。
「奥寺君、今までありがとう。私、あなたを忘れないわ。」
そうか、アニタは本当に西谷を連れ去るのかな・・・。
俺は、そんなことを考えながら、呆然と西谷が何か喋っているのを聴いていた。
「奥寺君、私、初めて話したときから、あなたのことが・・・。」
そう言った瞬間、西谷とアニタは、まるではじめから何もなかったかのように姿を消していた。
風の入ることのない教室で、なぜか俺は肌に風を感じた。
とてもいい匂いがした。
多分、西谷とアニタがいた部分が真空になったせいで起こった風だと思う。
俺はポケットに違和感を感じて、その中をまさぐった。
中には西谷の筆跡で、「さようなら。」と書かれた一枚の紙が入っていた。
太陽は裏山の木の影に隠れ、そのせいで教室はすぐに暗くなった。


次の日もその次の日もその次の日も、西谷は学校に来なかった。
西谷の両親は警察にこれは誘拐事件だとか言って娘の捜索を依頼したが、脅迫電話の一本もない誘拐を警察は相手にせず、西谷はただ行方不明になったとしてこの事件を処理した。
やがて、西谷の席はクラスの次の席替えの時に消え、季節が2つ変わるころには、皆の記憶の片隅からも消えようとしていた。
俺はあのとき、何でアニタから西谷を守ろうとしなかったか、と悔いていた。
そして、今でも西谷はこの世界のどこかにいると信じて、部活をやめ、勉強もろくにせずに西谷のことを捜したが、結局西谷のニの字も出ないまま卒業を迎え、東京の大学に入学した。

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