アポロ (43停止目)

 

その日の放課後も、僕は図書室で勉強していた。
グータラで無気力な僕がなぜテストでもないのにこんな場所で勉強に励んでいるのか。
ありがちな理由かもしれないが、僕には気になる娘がいて、その娘が図書室で勉強してるからなのだ。
ショートカットで、いかにも活発で、それでいて清純そうな彼女を見るだけで、僕の胸は高鳴る。
クラスマッチなどでは、常に女子の中心で活躍する。
また、彼女は成績もよく、テストでは常にクラスで一番を取っているそうだ。
名前を 菅野 よう子 と言う。

図書室には結構な人数がいるのに、静けさが支配している。
そんな中、僕は本を漁るフリをして、彼女の横を通る。
上品に椅子に座って勉強をする彼女が、髪を静かに掻き分ける。
いい匂いがした。
うなじが見えた。
僕はドギマギして、顔が赤くなってしまった。

やがて、下校時刻になる。
司書の山城が生徒たちを変えるように促す。
僕も荷物をまとめる。
広げていたノートには、動機が動機だけにあまりはかどっていない様子が無様に記されていた。
彼女はすでに廊下に出てしまっていた。
その日も、僕は彼女に声をかけられずにトボトボと靴箱へと歩くハメになった。
すでに太陽の下半分は山の後ろに隠れてしまっていて、夜の帳とやらが降りてきていた。


その次の日も、またその次の日も僕は放課後に図書室で勉強していた。
正確には、勉強するフリをして彼女とお近づきになる機会をうかがっていた。
が、ノロマな僕はそれをことごとく見逃してしまって、彼女と話すことなんて無かった。

「おい、ミツヒロ。お前、なんでまた毎日図書室になんて行ってるんだ?受験?」
休み時間、高野が隣から声をかけてきた。
高野は僕のクラスメイトで、こいつがやたらモテるんだ。
外見も性格もいいし、運動神経も抜群。
さらに勉強もデキる、ピアノが超うまいときた。
「あー、そう。受験対策。」
僕は気のない返事をする。
「ふーん。」
高野は、納得したようなしないような返事をする。
「俺はてっきり、菅野について回ってるのかと思ったよ。」
言い当てられて一瞬ドキッとしたが、何事も無かったように
「バーカ、来年の受験に向けて、周りより一足早く行動を開始しただけさ・・・なんてな。」
と、それなりの返答をする。
少し視線が浮ついたような気がしたが、高野は気付いていないハズだ。
「ミツヒロ、えらいな。」
「お前、勉強してないのに成績はいいじゃねぇか。勉強する必要ないんじゃないの?ていうか音大受験だし。」
「バーカ、音大受験でも一応勉強はしてるんだぞ。必要な点数だってあるしな。」
高野がそう言った時、始業ベルが鳴って僕たちは席に着く。

その日は天気予報で冬型の気圧配置が強まるとか言っていた。
昼過ぎから強くなってきた北風が校舎にぶつかって、窓がカタカタと震える。
それでも図書室の中は何も無いようにいつもの静けさが支配している。
今日、僕は高野と一緒にいる。
高野は課題の調べものがあるそうだ。

彼女は今日も図書室の一角で勉強していた。
僕の席から、細くて白い指にしっかりと鉛筆でタコを作っているのが分かった。
そんなに何を勉強しているのだろうか。
「おい、ミツヒロ。お前の近くに『楽典』に関する参考文献みたいなの無いか?」
静かな図書室の中、異質な通る声が響く。
「あー、ねぇよ。」
仕方ないので僕も通る声で返す。
必死で勉強している生徒からにらまれる。
が、高野は全く気にしない様子だ。
そんなハズは無い、と僕の方に歩いてきて、近くの図書を漁る。
「あるじゃんか、これだよ。」
このへん、高野は自分勝手なヤツだと思う。
僕がそんな本知るはずも無いじゃないか。
でも、なぜか憎めないヤツなんだ。
多分、高野が常に素だからなんだろう。

「高野君、今日は図書室なんか来て何勉強してたの?」
下校時刻のあと、なんと彼女が高野に話しかけてきた。
「あー、課題の調べもの。楽典とかなんとか。」
「ふーん、そっか。そういえば高野君は音大受験だっけ?」
「そうね。で、菅野は?」
「あたしは、勉強。受験だね。」
僕が何日かけても越えられなかった壁を、フラリと来た高野は、すでに越えてしまっていた。

僕も、何か会話に入らなきゃ。
・・・でも、菅野さんと僕はほとんど接点がない。
話題もない。
何か、何か・・・。
「あー、受験勉強ね。そうか、早いな。こいつも受験勉強なんだぜ。」
高野が僕に話を振る。
「あ・・・うん。」
しかしノロマな僕はそんな気の利かない相槌くらいしか打てなかった。
「あ、そうなの。え・・・と、大杉君だっけ?最近よく来てるよね。」
「うん、まぁ・・・。」
「そうなんだ、お互い頑張ろうね!」
僕は彼女の目を直視できずに、少しトイレやら窓の外の風景やらに目をやった。
曇天の雲から吹く北風が相変わらず窓を震わせて、その隙間から風が入ってきていた。

夜。
突然、枕元に神様が降りてきた。
嘘じゃない。
証拠がある。
携帯のストラップみたいな小さなスイッチ。
神様がこれを僕にくれたんだ。
「このボタンを押すと、30秒だけ時間が止まるんだ。」
みたいなことを彼は言っていた。
でも、僕の人生で使えるのは3回だけらしい。
そして、そのうち1回、僕はすでに朝一番におきて使ってしまっていた。

その瞬間は、まさに僕一人の世界だった。
風の音がピタリと止んで、階段を上ってくる親の足音は途中で消えた。
時計の針は午前6時45分32秒を指したままで止まっていて、振り子運動をしていた電灯の紐はありえない位置で静止した。
ああ、時間が止まったんだなと思った。
僕一人だけに自由な世界が広がった。
そこで、僕は突然のことに何もできずにただ布団で寝ながら考えた。
朝、携帯にヘンなスイッチがついていた時点で夜見たものが現実だなとは感じたが、それはあまりにもそれまでの日常とはかけ離れすぎていた。
だが、ボタンを押した瞬間に、僕は確信した。
その時、僕には、神様は何者なのか、こんなものを僕に渡して、何をさせようとしているのか、という疑問と不安もあった。
だが、それより誰も知らない力を、残り2回だけとはいえ手に入れたことに興奮を覚えた。
それは、丁度、子供が新しい玩具を手に入れた時のような興奮だと思う。

それから、突然風が窓に吹き付けて、親の足音が復活した。
時計の針が動き出し、電灯の紐は再び振り子運動を続ける。
ああ、時間が動き始めたんだなと思った。
と同時に、こんなくだらない事に手に入れた力を一度使ってしまったことを悔いた。

僕は何事もなかったかのように布団から起きて、朝食をとり、身支度を整える。
時間を止める力を手に入れたことの興奮を抑えて、自転車に乗り込み、そして家を出る。
が、どうしても自転車を漕ぐ足はいつもより早くなっていて、途中何度か人にぶつかりそうになった。

 

その日の朝は、全校生徒が講堂に集まる、全校集会というヤツが予定されていた。
校門から自転車を降り、駐輪場に自転車を停め、校舎へと入る。
カバンを机に置いた時、僕はその日相変わらず北風が強いことも、高野が教室に居ないことにも気付かなかった。
今朝手に入れた能力の使い道を、登校中からずっと考えていた。

しかし、時間を止めると言っても使い道はあまり無い。
何か事を起こすにしても、たかが30秒だ。
連続して止めたとして、1分で何ができるだろうか。
せいぜい、何か身に危険が迫った時にそれを回避するくらいのことしかできないだろう。
今朝覚えていた興奮は、冷静になって考えていくうちに、少しずつ覚めていっていた。

そんな事を考えているうちに、予鈴ベルが鳴る。
講堂へ集合するようにクラス委員長に促される。
僕が到着したとき、講堂は先に集合した生徒がすでに列を作っていた。

「高野浩司、右は全国学生ピアノコンクールにおいて頭書の成績を修められたのでこれを賞する・・・。」
高野は全校生徒の前で表彰されていた。

僕らの通う学校は普通科だ。
高野がピアノの道に目覚めたのが高1の時だったらしい。
元々ピアノは幼い頃からやっていて、才能も見抜かれていた。
が、高野は過度に期待する周りに対して反発し、わざと練習しないなんて事もしょっちゅうだったそうだ。
そんなこんなで中学時代、高野はくすぶっていた。
もちろん、音楽大学の付属高校は落ちた。
しかし、高校入学後「プロのピアニストになりたい。」と自ら言い出した。
そこから、高野は何かが乗り移ったようにピアノを練習したらしい。
元々あった才能もあって、今では全国でも注目される学生ピアニストだ。

「わが校の誇りだよ。」と、校長。
「これからも精進します。」と、高野。
それから、なぜか高野によるピアノ演奏があった。
「どうせなら素晴らしい演奏を全校生徒にも聞いてもらおう。」と、コンクールをたまたま聞いて感動した校長が余計な根回しをしたらしい。

まるで王子様のようなスタイルのいい男が、ピアノの前に座る。
一年の方の女の子の一部が、食い入るように身を乗り出して高野を見ていた。
そして、高野の指が鍵盤の上に置かれる。
白い静寂が高野の体からにじみ出て、講堂にいた誰もを縛り付ける。

 突然、高野の指先が鍵盤へ打撃を始めた。

 打撃は不定期に何回か繰り返され、その打撃と打撃の合間には必ず静寂があった。
 それから、まるで逃れられない恐怖から逃げようとあえぐようなアルペジオが広がって、高音部が悲痛な魂の叫びをあげる。
 低音から音が迫ってくる。

そこにいる全員が釘付けになる。
僕は、チラリと彼女を盗み見た。
彼女の頬は紅潮しており、目は輝いていた。

 つかの間の安堵が流れた。
 まるで神の慈愛を見たような音。
 先ほどの恐怖から解放されたアルペジオと和音。
 それらは突然終わり、とり付かれたように歓喜に向かう連続打撃が始まる。
 だが、それはどこかはかなくて、そしてまた不安が頭をもたげ始めて、静寂の影から魂が再び切迫感と共に叫び始める。

僕は何も考えることができなかった。
それは、高野の演奏に素直に感動しているのか、それとも、高野が彼女を釘付けにしていることへの嫉妬を良心が抑え込んでいるからなのだろうか。

 そして、魂が叫ぶ。
 悲痛な叫びを訴える。
 心がえぐられる。
 しかし、叫びはいつしか救いへと変わり、やがて再び平穏が訪れる。
 再び恐怖から解放されたアルペジオ。
 歓喜へ向かう連続和音。
 そして、一抹の不安が切迫されながらも消化されて、曲は歓喜の和音を以って終わる。

しばらく鍵盤に突っ伏していた高野だったが、額にうっすらと汗を浮かべて椅子から立ち上がり、礼をしてステージから去った。
万雷の拍手が講堂を支配する。
僕は、こんな怪物みたいな男と友達だったのだ。
そんな事に、僕の自尊心は満たされていた。
同時に、ステージの上で微笑んだ高野の顔が恐ろしくもあった。

「大杉君!」
彼女が僕を呼び止めたのは、集会の終わった直後のことだった。
頬は相変わらず少し紅潮していて、目には輝きの痕跡が認められた。
「高野君、今日も図書室に来るかな?」
彼女は僕にそう聞いた。
「あー、わかんない。あいつ今日も調べ物とかあるのかな・・・。」
僕の体は、きちんと彼女の質問の答えを述べた。
僕の心は、脳味噌が崩れてしまいそうな感覚に耐えていた。
それでも僕は、先日まで一言も言葉を交わすことができなかった彼女に話しかけられたことが嬉しかった。
北風は相変わらず講堂の窓に強くたたきつけられていた。
「そう・・ありがと、またね。」
彼女はそう言うとクラスメイトの所に戻っていった。

僕が教室へと戻ったとき、高野はすでにクラスの男子を中心とした輪に囲まれていた。
それは、素直に高野を褒め称える者と、嫉妬の混じった感情を持つ者とで構成されていた。
「すげーな、浩司。」
「かっこよかったぜ。」
「ホントにピアニストになるんだ。」
などの声が教室を飛び交う。
高野は輪の中心で、いつもと変わらない表情でいちいち賞賛の声やら質問やらに答えていた。
僕が高野なら、きっと逆上せあがってしまうに違いない。
きっと、高野は今日の演奏を高野自身のためにしたんだと思う。
純粋に、無欲に、ただ自分の全てをありのままに曲に投影して演奏したんだと思う。
多分、今の高野の心の中に彼女を想う気持ちなど、毛ほども無いのだろう。
僕は、そのことに少し安心してしまった。

「ミツヒロ、お前いつまで勉強すんの?」
高野が聞いてくる。
「あー、下校時刻まで。」
僕は即答した。
「そう。俺はもう終わったから帰るな。」
「あ、そう・・・。お疲れさん。」
「おう、頑張れよ。」
僕は、できれば高野は下校時刻まで一緒にいてほしくなかった。
下校時刻まで一緒にいれば、彼女は必ず高野にだけ話をするから。
だから、引き止めるなんて事はしなかった。
それに、高野の性格だと、引き止めても無駄なことを僕は知っている。

「あ、高野君、帰るの?」
図書室の反対側で、小さく彼女の声が聞こえた。
「おう、お疲れさん。」
高野が答える。
僕は、彼女が「一緒に帰ろう。」などと言い出すのが怖かったが、そんな考えを起こさなかったのか、高野にとり付くシマが無かったのか、それは言わなかった。
ただ、笑顔で「じゃね。」と手を振るだけだった。

僕は下校時刻が待ち遠しかった。
今日、僕と彼女との間に高野はいない。
一対一で会話ができる。
はやく山城が生徒を追い返さないか、そんなことに僕の興味は注がれていて、勉強ははかどらなかった。
北風はまだまだ強くて、窓の隙間から入ってくる冬の空気が足元をヒンヤリさせていた。
時折、コォォォという高い場所でぶつかる北風同士の音が、図書室を支配していた。

まだ5時にならないというのに、あたりは暗くなっていた。
下校時刻には、日はすでに落ちているのだろう。
もうすぐ、下校だ。
そんな期待に胸を膨らませていると、彼女はいきなり荷物をまとめ始めた。
「あ、菅野。もう帰るの?」
「うん、今日はこれから塾だからね。」
「あ、そう。頑張ってね。」
「うん、レミもね。バイバイ。」
「バイバーイ。」
彼女は友達に手を振って、帰っていった。
一方、僕も荷物をまとめようかまとめまいかと悩んだ。
だが、今荷物をまとめて彼女を追いかけるのは、不自然だ。
時間を止めて荷物をまとめて、自然に彼女の隣に居ようなんて考えも無くはなかった。
が、あと2回しか使えないこの能力をそんなことに使っていいのか、という浅ましい計算が僕にスイッチを押させなかった。


「でも、菅野も厄介なヤツを好きになったもんね。」
「うん、あいつ、女とか興味なさそうだもん。」
「確かに格好いいんだけどね。」
「でもねぇ、恋愛とかしなさそうじゃん。」
「うんうん。なんか自分の世界だけで生きてそう。」
・・・・。

下校時刻、僕は彼女の友達のそんな会話に聞き耳を立てていた。
彼女は、『女に興味がなさそうで格好よくて恋愛とかしなさそうで自分の世界だけで生きてそう』な男が好きなのだそうだ。
それはきっと高野のことなんだろう。
僕も高野のようになりたい。
しかし、自分の聞き耳を立てるなんて行動が、それを完全に否定していた。

その日の放課後も、僕は図書室で勉強していた。
彼女がいつものようにいると思ったからだった。
だが、彼女はいない。
昨日彼女が座っていた席には、今日はメガネをかけた三年生の男が座っている。
東京大学なんて大学の赤本を携えて、必死に受験対策をしていた。
僕は少しだけ図書室を見回したが、やはり彼女はいなかった。

高野は今日はピアノのレッスンとか言ってすでに帰ってしまった。
高野がいないから彼女がいないのか、と、一瞬、高野と彼女が一緒に下校する様子が頭に浮かぶ。
彼女が高野と腕を組んで、何か話しながら歩いている。
その光景があまりにも自然すぎて、僕は少し不安になった。

彼女の友達も今日は来ていなかった。
というより、昨日はたまたま皆で一緒にいたのだ。
友達はそんなに足繁く図書室に通っているわけではない。
来ていたら何か聞き出そうと思っていたのだが。

昨日まであれほど吹いていた北風は、今日はおさまっていて、空から雲は消えていた。
日差しが暖かく入り込んでくる。
そのためか、今日はいつもより居眠りを決め込んでいる生徒が少し多いような気がする。

その日、僕の頭はずっと平穏だった。
それは喜ばしいのか、それとも喜ばしくないのか、僕には判断できなかった。
下校時刻が過ぎ、そこそこはかどった様子の見えるノートをカバンに詰め、家路につく。
すでに暗くなった住宅街を、僕は自転車で走りぬけた。
ナトリウムランプの灯った大通りが、図書室で彼女を見つけられなかった時の光景と重なって、想像を一層リアルなものにした。

部屋で一人、スイッチを触りながら考え込んだ。
このスイッチを、この先、ケチな僕は押すことがあるのだろうか。
初めの一回は、何も考えていなかった。
昨日、ふと頭によぎったアイデアを、ケチな僕は先延ばしにした。
これから、そんな風にどんどん先延ばしにしていくのではなかろうか。
そして、気がつけば僕の人生は終わっているのではなかろうか。
病室のベッドの上で思うのは、いまさらあと2回時間を停止できたところで何になるんだという後悔の念かもしれない。
あるいは、居眠り運転のトラックが道で突っ込んでくるといった危機に際しても、僕はそんなケチな計算をするのかもしれない。
結局、先延ばし先延ばしにして、保留したままズルズルと後退していく。
このスイッチだけではなく、全てにおいて僕はそうだ。
人には、人生で一度か二度、全てを敵に回してでも戦わないといけない時があるそうだ。
この前テレビで誰かが言っていた。
僕はそんな事態をズルズルと回避することぐらいしかできない。
それが情けなくなって、僕はそのまま机に突っ伏した。

 

「それ」は突然のことだった。


僕は、高野と一緒に下校していた。
調べ物の終わった高野が、珍しく一緒に帰ろう、なんて言い出すからだ。
「あ、菅野。」
「ん、なぁに?」
「バイバイな。」
「ん、バイバイ。」
その時、彼女は多分、何も知らなかったんだと思う。

トラックが通るには少し細い道の左側車線にある歩道を、二人で並んで自転車で走っていた。
車が僕らの横を通り抜けるたび、高野の髪が靡いていた。
「なぁ、大杉。」
「何?」
僕は、高野が珍しく僕を苗字で呼んだことに違和感を覚えた。
「・・・お前、菅野が好きなの?」
「・・・はぁ?」
どうやら、僕はそのような渡世術に長けているらしい。
自分の気持ちを隠し、あるいは偽る生き方。
「ん、そうか。」
そう言って、高野が笑った。
なぜかは分からないが、笑った。
男の僕が見ても思わずドキっとしてしまうような、そんな笑顔だった。

そして、それが、高野を見た最期だった。

巨大なトラックのタイヤはすでに高野の体を巻き込んでいた。
運転手がそのことに気付いたのは、その鈍い音がしてから50mも走った場所だった。
それからブレーキ音が聞こえて、20mほど前にあった電柱にぶつかってトラックはやっと止まる。
左の前輪が赤く汚れていた。
そのタイヤの影で、高野だったモノが赤黒い液体を滴らせているらしい。
僕は、それが嘘の光景に思えた。
この間、時間の止まるボタンを押す、なんて嘘のような体験をしたせいでもあるのかもしれない。
引き裂かれた学生手帳が、歩道に落ちていた。
中には誰かの写真が入っていたが、誰のものかは分からなかった。

「誰か、救急車を!!」
誰が叫んだかは分からなかったが、そんな声が聞こえた。
その声のおかげで、僕は目の前の光景を初めて認識した。
車が荒々しいクラクションを何度も鳴らしながら通り過ぎていた。
反対側車線には、どこぞの学校の制服を着た女子中学生か高校生の集団が、皆して携帯で写真を撮っていた。
トラックの後続の車から人が降りて、駆け寄った。
止まったトラックは高野だったモノを引きずったまま再び動き出そうとしたが、前の電柱が邪魔で動き出せずにいた。
「大丈夫かい?」
車を降りて駆け寄った男に両肩をつかまれ僕ははいと気の無い返事をし、それから側にあった塀に寄りかかって座った。
やがて警察と救急車がけたたましいサイレンと共に現れ、トラックの運転手が運転席から引きずりおろされて逮捕された。
高野だったモノはそのまま青いビニールシートで隠されて、次にトラックを見たとき、それらは僕の視界から消えていた。

身の危険は感じていた。
いや、あそこから危険を察知して回避しろというのは無理な相談じゃないか。
後ろから走ってくるトラックの音が、少し妙な近づき方をしていた。
でも、それが本当に危害を加えるとは・・・。
僕には何もできなかった。
ホントに何もできなかったのか?
仕方ないじゃないか、
なぜ、そう言い切れるんだ?
僕には例のボタンがあったじゃないか。
あのボタンを押しさえすれば、高野は・・・。
いや、あの瞬間にあのボタンを押すのはムリだ。
しかし、普段から気をかけていればそれは可能じゃないか。
いや、しかし・・・でも・・・。


その夜、「路面に散らばる高野だったモノ」がフラッシュバック的に思い出され、僕はトイレで3回嘔吐した。
その度に、自問自答を繰り返した。
社会的にはあの居眠り運転のトラックの運転手が悪いのだろう。
しかし、僕は、本当にボタンを押せなかった・・・。
それが、僕以外の誰も考え付かぬような罪を僕自身に求めていた。
4回目の嘔吐で、僕は、この苦しみから逃れようとボタンを押した。
時間が止まるなんて嘘のようなボタンだ、それくらいできてもいいだろ?と、自分の中で勝手に期待した。
が、それから30秒間夜の静寂が一層静かになっただけで、他には何も変わることが無かった。

次の次の日、高野の告別式があった。
白黒に写った高野は、生前に見ているよりも一層格好よく見えた。
だが、その写真の前に見えるのはただの木の棺で、高野だったモノたちはその中で写真とは違う形でいるのだろう。

色々な人が来ていた。
僕の知らない女の子を何人も見かけた。
明らかに俗世離れした雰囲気を醸し出している白髪の老人もいた。
高野は、こんなに多くの人に愛されていた。
そしてもちろん、彼女も来ていた。

彼女は、高野の棺の前で、ただただ泣きじゃくっていた。
隣にいたレミとかいう子が、彼女の背中をさすりながら慰めていて、レミが何かささやく度、彼女はうん、うんと頷いていた。
・・・本当に高野のことが好きだったんだな。
そう思うと、僕は改めて高野に嫉妬した。
僕は彼女のように必死に泣きじゃくろうとしたが、涙なんて出てこなかった。
寺の住職の読経が、だだっ広い木造の部屋に響く。

パァーン、と霊柩車がクラクションを鳴らした。
高野を見送るためにきた様々な人々が、それぞれに涙を流す。
僕は、そんな光景を、ただ黙って見ていた。

火葬場へは高野の親戚のみが行く。
僕ら高野と同じ学校の生徒は、そのまま学校へと、ズルズルと行列を作って行くことになった。
「なぁ、大杉。」
隣にいた北条という男が僕を呼ぶ。
「高野、もういないんだよな。・・・なんか実感湧かないな。」
そのとおりだった。

「えー、2年C組の高野浩司君が、先日、交通事故で亡くなりました。
 皆さん、高野君のために黙祷をささげましょう。」
あの高野のファンだった校長は、次の全校集会でそんな事を挨拶で言った。
その後、講堂にいた生徒らと共に黙祷をする。
静けさと暗闇の中で、僕は遠くで誰かが誰かの愚痴を言っているのと、誰か女の子のすすり泣きを聞いていた。
その中には、彼女のものも混じっていたと思う。
「死んだアイツの事なんて早く忘れようよ。」と後ろから慰めたくなる。
それは、僕の野望の混じった慰めだった。

高野の机の上には、花瓶が置いてあって、その中には菊の花が飾ってあった。
「高野、お前の好きだったコロッケパンだぞ、購買部で並んでやっと買えたんだぞ。」
佐々木がそう言って花瓶の横にコロッケパンを置いた。

放課後の図書室に、彼女は来ていなかった。
司書の山城が、僕らに帰るように促した。
気付けば時計の針は5時半を回っていて、辺りは暗くなっていた。

僕は一度教室に戻り、佐々木の買ってきたコロッケパンを手に取った。
そして、遠回りして、事故のあったあの道を通ることにした。
高野に、佐々木の買ってきたコロッケパンを届けるために。
それに、もしかしたら彼女に会えるかもしれない。

事故現場には僕の知らない白い花が供えられているだけだった。
「from 菅野 よう子」と書かれた、ハートのシールで閉じられた手紙が横に添えられていた。
頭の中で、何かが囁いた。
それは、僕の声をしていた。
僕は、あのボタンで時間を止めると、白い花を足で踏み躙り、手紙をビリビリに破いた。
そしてコロッケパンをそこに置いて、自転車に乗って去った。
時間が動き出し始めたころ、僕の頭の中で僕と僕ではない何かが戦っていた。

もう僕に時間を止めることが出来ないことは、僕の頭の中には無かった。

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