&その3(38停止目)

 

人々の憂鬱と、欲望と、倦怠感と、ほんのちょっとの希望が渦巻くその駅に、確かに彼は存在していた。
ぼろぼろでぱさぱさの毛髪。焦点の合わず、生気のないうつろな目。口はだらしなく半開きになっており、端からよだれが垂れている。
『人生の落伍者』。人々は彼をそう哂うだろう。
だがしかし、この駅には彼を哂うものなど誰もいない。
皆、わき目も振らずプラットホームへと歩を進めつづけ、虚空をさまよう彼の視線に注意を払う様子もない。
ここでは、彼はなき者なのだ。皆、彼に目を遣る余裕すら持ちえないのだ。
彼は、『存在』を求めていた。
ふと、短いスカートをひけらかす女子高生と、彼の目線が合った。
彼がにやりと笑ってみせると、女子高生は左手で鼻をつまみ、顔を嫌悪に歪め、早足に彼の前を去っていった。
彼は、これで満足だった。
少なくとも、今さっきの女子高生のなかに、彼は確かに『存在』していたのだ。
……それがたとえ、嫌悪の対象としてであっても。
ふらふらと、夢遊病者のように彼は立ち上がった。
プラットホームへと続く、小便臭い、黒ずんだ階段をゆっくりと登る。
人々の流れに逆らうノイズである彼を、器用に避けて通る人たち。
彼にぶつかりそうになっても、彼の存在を認める者などいない。彼が発する饐えた体臭がその鼻を襲っても、彼に対して現に嫌悪をひけらかす者などいない。

……彼は、希有な力を持っていた。
ほんの少しのあいだだけ、時間を止める力。
彼がこの力に気づいたのは、『人生の落伍者』の烙印を押されて、日が経った頃であった。
この力をもってしても社会復帰は敵わず、未だに駅で徒に日を消費していく毎日。
日が経つごとに、薄れていく彼の存在感。
一時は社会復帰へと身を振るわせたその自尊心も、存在感とともに薄れていき、今は命を運ぶ足がかりとして存在するのみだ。
いま彼に残っているのは、抜け殻と、力だけ。
気が付くと、彼はプラットホームの端に立っていた。
『電車が参ります――危険ですので、白線の後ろ側まで下がってください――』
彼は、出し抜けに力を使った。
プラットホームを覆いつくしていた雑踏が消え、不快な耳鳴りだけが彼の耳を支配する。
先ほどと同じように、彼はふらふらと歩を進め、すれ違う人びとの顔を覗いていった。
皆、まっすぐと虚空を見つめ、無言で電車を待ち続ける。彼の存在に気づく者など、いない。
「お、おお、おお……お……」
彼は、顔をくしゃくしゃにして、声にならない叫びを上げた。
叫びは嗚咽へと変わり、その心を濡らし続ける。
間の抜けた電子音。
彼は、その電子音に導かれるように歩を進め続ける。白線を越えても、歩を進め続ける。
本当は、彼に気づいている者もいただろう。
しかし、彼に声をかけ、存在を認め、その高位を止めようとする者はいなかった。
彼が欲しかったものは、『存在』だった。
力を持ってしても、彼の一番望むものは手に入らなかった。
こんな力など、いらない。それがどんなに素晴らしい力であったとしても、彼の欲を満たすには足りない。
彼は、人と人とが作り出す、群れの間の虚空に向かって、力いっぱい飛び込んだ。

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