&その2(34~38停止目)

砂漏

「これで何回目だ」
目も眩むような光。その光の中心に居るであろう奴に、尋ねた。
「21971回目ですよ。神山五樹」
周りに従わせた光の波を優しく震わせながら、奴はいつも通りの透き通った声で答えた。
「一体あとどれだけ続ければいいんだ・・・もう、訳が分からない」
「・・・あなたに目的を教えてもこちら側にメリットはありません」
怒りが、沸々と煮えたぎるのを感じる。
声を出すより先に、身体が奴に向かって飛び出していた。砂を掴むような感覚。光で何も見えないが、確かに奴はそこにいた。
「貴様、ふざけるな・・・!」
「さぁ、神山五樹・・・」
不意に、力が入らなくなった。
「繰り返すのです。それがあなたのため、我々のため、未来のため・・・」
「く、くそっ・・・」
より一層光が強くなった。それに比例するように、意識が薄れていく。
「絶対に・・・!絶対に抜け出してやる、貴様を殺して・・・!」
光が更に強くなる。思考することすら困難にする、すさまじい光。それがどんなに神々しくても、五樹にとっては禍々しい物でしかなかった。
「愚かな子、神山五樹・・・」
既に、視覚はおろか、聴覚すら役目を果たさなくなっていた。
それでも五樹は、奴から奪った砂を、決して放そうとはしなかった。

「私は、いつでも貴方を見守っています・・・」

 

冷や汗が身体中をびっしょりと濡らす不快な感覚で目を覚ました。
深呼吸をする。そうして五樹は、ようやく自分がひどく喉を乾かしている事に気づいた。唇も乾いてひび割れかけている。無理に唾を飲み込んでみると、粉薬を水無しで飲んだような、ひどい感触が口中に広がった。
のっそりと起き上がる。
冷蔵庫の中に入れてある茶を飲もうと思ったが、目がショボショボしてどうにもよろしくない。まずは洗顔。
キッチンの蛇口をひねると、勢いよく水が飛び出した。手に水を溜め、顔に当ててスライドする。
冷たい水の感覚が、眠気の残滓を吹き飛ばす。ハンドタオルで、顔を少々強めに擦った。うむ、やはり洗顔はキッチンでなくては。
訳のわからない理屈だとは分かっていたが、五樹は心の中で頷いた。
お次は水分補給。
家庭にあるそれと比べると、格段に小さい冷蔵庫を開ける。
五樹は一人暮らしなので、大きさはこのくらいで充分なのだ。むしろ大きすぎると、色々物を買い込んでしまって結局損をする。
2リットルボトルの中に並々と注がれている茶を、そのまま両手で口に持っていき、ラッパ飲みで喉に流し込んだ。
少しカルキ臭のする重い茶が、とてつもなく美味に感じられる。二度三度咽かえしたが、口中に残ったひどい感触と、喉に張り付いていた何かが茶と一緒に流れていった。
少し冷静になった頭は、壁に掛かっている時計を見ることを五樹の身体に要求した。
そして五樹は、一時限目の授業は7時40分に始まり、今が8時10分であることに気づいたのだった。

「おい五樹」
「なんだホーク」
「ちょwwwホーク呼ぶなwww」
ホークなる人物は、困っているのか笑っているのかよく分からない表情を浮かべた。
それにしても汗が止まらない。
急いで学校に行ったところで遅れることには変わりが無いから敢えてゆっくり、一時限目が終了に合う頃合いに家を出たのだが、この真夏並みの猛暑は、急ごうが急ぐまいが万人に汗を掻かせることを強制するようだった。
それは、五樹にも例外ではなかった。
ちなみに、こいつの本当の名前は佐々木和彦。本来あだ名として適当なのは「カズ」なのだろうが、佐々木は生まれ持った顔つきが某有名AV男優にそっくりだった。
どこの学校に通おうが、こいつのあだ名は「ホーク」か「鷹」か「加藤」だったに違いない。おっと、「加藤」はあだ名には聞こえないな。
「お前、なんで今日遅れたんだ?いつも授業が始まる前ギリギリに来ているけど、遅れたことは無かっただろ」
「・・・別に。寝坊しただけだ」
そう、寝坊しただけ。それ以上でも以下でもない。変な夢を見ていたような気もするが。
「?痛て・・・」
急に後ろから小突かれた。突然人に危害を加えるような真似をする奴は自分の知る限りあいつしかいない。
五樹は、頭をさすりながら後ろに振り返った。
「由宇、いきなり何をするんだ」
「何をする、じゃないでしょ」
相川由宇が、いかにも不機嫌そうにふくれっ面をしていた。
「今日は、何日?」
「5月・・・」
「月は関係ない」

五樹は、少し眉をひそめた。
15歳にこの高校に入学した以来から、由宇の自分に対する散々な物言いには何度も辟易していた。しかも、この物言いは高校二年生になった今になっても改善される事もなく、自分を未だ辟易させるのだ。
「・・・19日だ」
「そう、そしてあなたの出席番号はなに?」
「・・・19号だ、で?」
「まだ分からないの?一時限目の授業はなに?」
「・・・数学、ああ、なるほど」
ようやく、由宇が不機嫌な理由が分かった。
「今日は、あなたが当たる日だったのよ」
数学教師の「ザビエル」は、毎回日付に当たる出席番号の生徒を教壇に立たせて、問題を解かせる。
今日は5月19日、本来なら19号の人物が当たるはずだった。しかし、肝心の19号、神山五樹がいない。それで、後ろの席の相川由宇が当てられたのだろう。
「そんくらいで怒るなよwww」
ホークが腕を組み、由宇を嘲る。五樹も、ホークに合わせて笑った。
「うっさいわね!あたし、あいつ嫌いなのよ!」
由宇が、欧米人のそれのように両腕を広げ、溜め息を吐いた。
「頭光らせてるだけならまだ無害なのに、ここ最近暑いから、あいつの頭ものすごく油ギッシュなのよ?」
今度は、不快な気分を振り払うように、両腕で机を叩いた。こいつは本当に女なのだろうか。顔立ちはなかなか整っている方なのだが、これでは台無しだ。
「しかもものすっごくオヤジ臭いし!ああ、気持ち悪い、気持ち悪い・・・」
「ちょwwwヒドスwww」
「ザビエルだって好き好んでハゲたんじゃないだろうに」
「規則正しい生活習慣が確立してないからあんな風になるのよ!ハゲは差別されるべきだわ!」
『ちょwwwwww』
「うらぁーーーっ!ガキども、さっさと席に着けぇ!チャイムが聞こえないかぁ!」
どうやら、国語の「怒髪天」が来たようだ。あだ名の由来は、説明しなくても分かるだろう。
「今日は、19日だったな!よし神山、前に出てこのプリントの問題全部解け!」
「うへぇ・・・、全部ですか」
後ろから、小さな笑い声が聞こえた。
振り返ると、「バチが当たったのよ」と言わんばかりの由宇が、椅子にふんぞり返っていた。お前も笑ってんじゃねえよ、ホーク。

「・・・よし、全部正解だ。さすが天才だな」
五樹が怒髪天の執拗なまでの質問攻めから解放されたのは、授業が始まって25分後の事だった。
五樹は痛む脚をさすりながら、一時間近くの立ち仕事を毎回難なくこなす教師に、内心感心していた。
「先生、その呼び方はやめてくださいよ」
「この間の中間テストも一位だったそうじゃないか。お前、勉強しなくてもいいんじゃないか?」
「ああ、いつも専門内容の問題集で内職してますよ・・・痛てっ!」
怒髪天の「必殺、白墨破額打」が、五樹の額に炸裂した。あまりの威力に、チョークが折れてしまった。
「いたた、先生、誘導尋問なんてひどいじゃないですか」
教室から大きな笑い声が起こる。怒髪天も、五樹も笑った。
「ははは、神山、戻っていいぞ」
「痛いなあ・・・」
ぶつぶつ呟きながら、五樹は自分の席に向かった。由宇がニヤニヤしている。笑うな、畜生。

椅子にどっかりと座ると、脚の痛みも少し和らぐ。
今日、19日は、五樹にとってイレギュラーな日だ。
五樹は常に優秀すぎるほどの成績を残しているため、日ごろ、教師から当てられることがほとんど無いのだ。
中間試験の自分の結果を思い出す。国語、100点、英語、100点、世界史、100点、地理、100点、化学、100点、物理、100点、・・・
ここから先は、あまり思い出したくなかった。しかし、一度動き出した思考は、意思に反して止まる事は無かった。
・・・数学、98点。
思い出しただけでも、イライラする。完璧だと思っていたのに、自分は、ケアレス・ミスをしてしまったのだ。
なんてことはない、符号のミス。+と−の付け間違い。
由宇は「神経質すぎる」と笑ったが、自分にとっては大きな問題だった。
ケアレス・ミスは「間違えるはずがない」という慢心から来るものだ。その慢心が自分にあったという事が、途方もない絶望感を自分に与えるのだ。
――駄目だ、別のことを考えよう。
問題集を開く。この間買ったばかりの、超難関を謳う問題集だ。なんでも、専門の人間ですら解く事が困難であるらしい。艶々としたカバーが美しい。思わず頬擦りしたくなる。してしまったら、クラスメート全員に変な目で見られるだろうが。
折り目を気にしたが、思い切って力を入れて開いた。挨拶と目次を飛ばす。9ページ目。ようやく問題が出てきた。シャープペンを握る手にも力が入る。

「・・・・・あれ?」
思わず声を出してしまった。が、自分の声はチャイムの音にかき消されたようだ。
「はい今日はこれで終わり、ちゃんと宿題してこいよ!」
怒髪天がガラガラと大きな音を立てながらドアを開け、教室から出て行く。同時に、教室にざわめきが広がる。
五樹は、シャープペンを握ったまま動かなかった。
「・・・五樹?どうしたの固まって」
「いや・・・、なんだろう」
「なんだろうって・・・何これ、問題集?」
由宇が、後ろの席から身を乗り出して顔を突き出す。ちょうど、五樹の肩に顎を乗せるような形となった。
「ああ、この間買ってきたばっかりなんだが・・・、なんだろう、いや、なんでだろう」
「ちょっと、気になるじゃない!ちゃんと説明してよ」
「ああ・・・」
顔を由宇の方へ向けた。そのとき五樹は、ようやく由宇の顔と自分の顔が近いことに気づいた。由宇の顔が、みるみる赤くなる。
「顔赤いぞ、大丈夫か?」
「な・・・なんでもないわよ!・・・大丈夫」
由宇はそういうと、五樹の机の横に移動し、小さく咳払いをした。
「で、その問題集がどうしたの?」
「ああ、この間買ってまだ一度も解いてないはずなのに・・・」
五樹はわざと間を空けた。由宇が、興味深そうに身を乗り出す。
「一度解いたみたいに全部分かる」
「なにそれ、おもしろくないわよ」
「いや、面白がらせようとしたわけじゃないんだが・・・」
問題集をめくり、問題を確認する。この感覚は、何度も問題を履修してようやく感じる感覚だ。解いた事が無いのに、この感覚を感じるはずが無い。
ある程度、確認し終わった。
最後の最後まで、その感覚を五樹は感じた。
「・・・うむ、全部分かる」
「ちょっと見せて」
由宇が、半ば奪い取るように問題集を手に取る。横にしてみたり、逆さにしてみたりする。
しばらくそうしていると、ようやく諦めたのか、問題集を机に置いた。
「・・・ほんとにこんなの解けるの?」
「試してみようか」
ノートを開く。長くなりそうなので、余白を使わず見開き2ページを使うことにした。一番難しそうな問題を選び、シャープペンを走らせる。
途中でホークが横槍を入れてきたのだが、気を利かせた由宇が何処かへ追いやった。
5分後。見開き2ページは、高度な計算式で埋め尽くされた。
「答えは○○だ、合ってるか?」
「・・・合ってる、ていうか」
「なんだ?」
由宇が、あきれたような目をこちらに向け、溜め息を吐いた。
「衛星軌道方程式なんて、高校生のすることじゃないわよ」

3、4時限目も五樹は、問題集のチェックに力を注いだ。
その間にも何度か教師に当てられることもあったのだが、五樹にとって、高校生に解かせるような問題など小学生に解かせる算数のようなものだった。
4時限目の中ほどで、五樹は「この問題集は解いたことがある」と無理やり納得する事にした。
程なくすると、4時限目の終わりと、昼休みの始まりを知らせるチャイムがなった。

教師が出て行くと、ホークがいつものように椅子を持って、机の反対側に座った。
「おいすー、五樹。さっきなにやってたの?」
「問題解いてただけだ」
弁当箱を開けながら、ぶっきらぼうに答える。
「あ、佐々木、さっきは追い返してごめん」
由宇もいつものように、机を移動させて自分とホークと話しやすい場所に移動する。
二年生になってまだ二ヶ月も経ってないが、こうやって三人で弁当を食べるのが習慣になっていた。まぁ、大概自分の弁当はコンビニ弁当なのだが。
「いやー、びっくりしたよ。五樹と相川がいつのまにそんな関k・・・イテっ!」
「そんなわけ無いでしょうが!」
「でも顔赤いぞ、由宇」
「な、な、な、ばかぁーーーーっ!」
「ちょwwww危ねぇwwww椅子振り回すなwwwww」
「ああっ、由宇!俺のタコさんウィンナーが落ちたじゃないか!」
「知るかぁ!」

――今日も平和だ。問題集の事なんか、忘れてしまうくらいに。

午後。早くも暑くなりだしたこの地方の気候と、眠気を誘う念仏のような教師の物言いは、クラスメートの大半を眠りの世界に落とし込んでいた。
かく思う五樹は、背後から聞こえてくる由宇の小さな寝息に耳を奪われながら、問題集を(もう一度)解いて放課後までの暇つぶしをした。
放課後は、案外早く訪れた。

「五樹、帰ろう」
由宇が、いつものように帰宅の催促をしてきた。由宇も自分も部活動には属していない。この学校は部活動にあまり力を入れていないので、推薦入学を狙ってでもいない限り、入ってもあまりいいことはないのだ。
ふと、ホークはどうしたのだろうと思ったが、今日あいつは掃除当番だったな、と頭の中で納得した。
「うむ」
問題集だけを入れたかばんを肩に担ぎ、下駄箱へ歩を進める。
この学校は少し変わっていて、下駄箱が教室のすぐ隣の廊下に位置している。盗難防止の策らしいが。
「ねぇ五樹。なんでいつもコンビニ弁当なの?」
「昨日はパンだったじゃないか」
「もう、そういうことじゃないって」
由宇が不満そうに唇を突き出し、自分を睨む。
わざと微笑んでみる。由宇はすこし怪訝そうな顔をしたが、すぐに目を逸らして、少し影のある表情になった。
「・・・身体に悪いよ?たまには手作りのモノ食べなきゃ。親は作ってくれないの?」
階段を下り、玄関近くに位置する下駄箱に上履きを入れる。19番、19番。
「・・・なんだ、心配してくれているのか?」
「な、な、な・・・だからぁ!ちg・・・、もういい!」
由宇が足早に玄関に向かう。艶のある漆黒のパンプスをさっさと履いてしまった。
「親、いないんだ」
早くも玄関のドアを開けようとしていた由宇の手が止まった。
コンバースのスニーカーを玄関に置き、無理やり足を押し込む。
「・・・ごめん、嫌な事聞いて」
俯いたまま動かない由宇の隣まで歩を進めたところで、ようやく由宇は口を開いた。
「気にするなよ、俺自身、気にしてない」
ついて来るか心配だったが、自分が玄関から出ると由宇も出てきた。
暑い。これでも5月というのだからすごい。夏暑く、冬寒いこの地方が少し恨めしく思えてくる。
「でも・・・寂しくないの?一人暮らしなんでしょ」
由宇は俯いたままだ。そんなに気にしなくていいのに。
「ああ、寂しくないよ」
鉄製の門をくぐる。熱されたコンクリートの熱気と、鋭い日光が、身体中に纏わりついた。照りつける日光を手で防ぐ。早くも背中に薄く汗をかいてしまっているようだった。

「・・・孤児院の人は皆優しかったしな。でもあの孤児院、経済状況がヤバいんだ」
微笑んで見せたが、由宇は俯いたままだった。
「それで、俺は一人暮らしを始めたわけだ。自発的にな」
「そういう意味じゃない」
ようやく由宇は顔を上げたが、その顔にはまだ影が掛かっていた。
「・・・親がいないのが、寂しくないの?」
どうやら由宇は本気で聞いているようだ。いやな空気が、さらに自分の汗腺を広げたような気がした。
「母親ホステス、父親貢くん」
由宇の顔に、驚きが浮かんだ。気にせず話を進めることにする。
「責任取れないなら、産むなって話だよな」
嘲笑を浮かべた。由宇の顔は敢えて見なかった。
「俺は孤児院の前に捨ててあったらしい。名前と、両親の最低限の情報が書かれたメモと一緒にな」
由宇の顔がいまどうなっているか、容易に想像できた。でも、まだ見なかった。
「成長した俺が天才だと分かったら、両親とも先を争って親権を主張するだろうな。でも、そうなったら俺はこう言うんだ」
由宇の顔を見た。思ったとおり、影の掛かった顔を俯かせていた。
「ぼくはおとーさんやおかーさんのようなだめにんげんのおせわにはなりません。どうかおかえりください・・・って風にな。どうだ、傑作だろう」
由宇の顔が、ますます暗くなった。自分は、微笑んだ。
「だから、そんな顔するなよ、由宇」
由宇が顔を上げた。
「そうだ、今度、お前の作った弁当食わせてくれよ。お前の弁当、お手製なんだろう?」
由宇が、やっと少し笑った。
「お金、払うならね」
イタズラっぽい笑顔だったが、いつもの由宇からは考えられないほど、愛らしい笑顔だった。

分かれ道で、肩甲骨のあたりまで伸ばされた黒髪の少女と別れた後、五樹は寄り道をせずにアパートへ向かった。
遠くに見える蜃気楼と、時折聞こえる車の稼動音。下校時であるのに、アパートのはす向かいに建設された、何故か白衣を着た一軒家の住人以外、人っ子一人見なかった。
アパートの階段に足を踏み入れると、乾いた音が響く。左ポケットに入れてある鍵を取り出し、錠前を開け、ドアを開くと、自分の部屋の匂いが鼻腔をついた。
机に鞄をおき、冷蔵庫の中の烏龍茶をラッパ飲みで飲み下す。途中でまた二度三度咽かえした。
着替えようか着替えまいか悩んだが、そのままベッドにどっと倒れこんだ。
自分は、親の事を軽蔑している。責任も取れないような大人から自分が生まれたことが、自分の人生の最大の汚点だと思っていた。
それなのにどうして、そんな親の事を由宇に言ったのだろう。
親こそいないが、自分は公立の小中学校へ通った。話すような友達こそホーク以外にはいなかったものの、親の事など一言たりとも他人には漏らさなかった。
――誰かに、知ってもらいたかったのだろうか。
――だとすれば、なぜ由宇に?
「ああ、そうか」
瞑っていた目を薄く開き、呟いた。
――自分は、由宇の事が好きなのだな。
納得すると、そのまま目をゆっくり閉じ、眠りの世界へと向かった。

ベッドに倒れこんだまま夜を明かしてしまったことに気づいたのは、午前5時30分のころだった。
起きて少しの間は、夕方まで寝てしまったのだろうかと思っていたが、すっかり形を潜めた暑さと、壁に掛かった時計が、日本が日付変更線を越えて5月20日の今日になっていることを告げていた。
帰宅したのは午後4時45分。12時間以上も眠っていた事になる。そのことが幸いだったのか、毎朝の二度寝するか否かの葛藤は起こらなかった。
ふと、五樹は気づいた。今日は5月20日、土曜日である。正確に言えば、5月20日、第3土曜日、友引である。
重要なのは第3土曜日だという事だ。五樹の通う高校は私立校。つまり、今日も登校しなければならないのである。
「くぁ、ガッデム!」
思わず中指を突き立ててしまったが、突っ込んでくれる人はいない。
数秒の後、五樹は寂しそうに指を下ろした。
いかん。眠気がいつもより少ない分、テンションが若干上がってしまったようだ。それにしても早朝はいい。熱されたアスファルトから放たれる、じりじりとした空気は完全に消え失せ、代わりに涼しさを伴う清楚な空気が……
その時、腹が鳴った。
よく考えたら昨日は晩飯を食べていないではないか。
五樹は、食パンの保管されている冷蔵庫の元へと急いだ。

5月20日の教室は、殺伐とした雰囲気を含んでいた。
右を見る。丸刈りの頭をした野球部員Aは、平面上は冷静を保っているが、週休二日制を導入している公立校への羨ましさと憎らしさの二つを含んだ、なんともいえない表情をしている。
左を見る。眼鏡をかけた、顔中にきびだらけの生徒会長(女)が忙しなくシャープペンを走らせている。まあ、こいつはいつも通りか。でも、時々こちらを睨むのはやめていただきたい。学年成績が2番ということも、なかなか名誉な事だと思いますよ。
後ろを見る。
「なに見てんのよ」
どう見ても不機嫌です、本当にありがとうございました。
「ありがたくないわよ、なんで土曜日に学校に来なくちゃいけないのよ」
そう言うと、由宇はそのまま机に伏せてしまった。今、心の中を読みませんでしたか?
「全くもってその通りだ! 私立校も週休二日制を導入すべきだ!」
いつから立っていたのだろうか。某有名AV男優に似た風貌を持つ少年が、突然、鷹を思わせるような甲高い声で……
「だから、ホークと呼ぶなっ!」
「ホークじゃないぞ、鷹だ。なんでお前も心の中読んでるんだよ」
「何の話だ! 帰るぞ、俺は帰るぞおおおおおおおおおおお」
「そうはいカンザキ、佐々木。さぁ、出席を取るぞ」
マイナーな洒落を発しながら、やけにフレーム部分の太い眼鏡をかけた担任の中島が教室に現れた。
一ヶ月ぶりの、第3土曜日が始まる。

国語、数学、英語、化学。
土曜日の授業は、この四つの教科によって構成されている。朝課外が無い分、いつもよりは幾分か居眠りをする生徒の数は少なかったが、8時15分から12時30分まで、終始殺伐な雰囲気は続いた。

日は高く上り、午後。
先ほどまでの殺伐な空気は完全に吹き飛び、平日の放課後よりも活気のあるざわめきが、教室を満たしていた。
「ほら五樹! さっさと帰るわよ!」
・・・こいつも元気になったようだ。まるで、さっきまで時間でも止まっていたかのようだ。案外、自分以外の人間が本当に止まっていたりして。んなわけないか、はは。
そう思った瞬間だった。目の前で両腕を上に振り上げていた由宇が、その場で固まった。
「由宇? どうしt……!」
由宇だけじゃない、全てが止まっている。
野球部員Aも、にきび面の生徒会長も、嫌悪感たっぷりの表情でモップを持つホークも、窓ガラスの向こうで飛んでいた鳥も、青空にお似合いの雲も、全てが止まっている。
それに、この耳鳴り。
不快感を伴うこの耳鳴りが、ここは音が無い、音の発せられない世界だと、自分の脳に告げていた。
――これは、何なのだ。
――時間が止まっている?
――いや、ありえない。そんな非科学的な事など・・・
しばらく思案していると、砂が流れ出すような音と共に、雑音の洪水と、人の洪水が一斉にまた流れ出した。
突然震えだした鼓膜に、五樹は少しビクリとしてしまった。
「ん、どしたの五樹? さっさと支度しなさい」
「……! あ、ああ」
由宇に声をかけられるまで、自分は固まっていた。いや、固まらざるを得なかった。

いつもより、陽射しが強く感じられる。
視界が時折揺らぎ、自分が動揺している事を、否が応にも叩きつけられる。
「五樹、どうしたのよ? さっきから顔色悪いわよ」
由宇が自分の顔を覗き込み、眉間に皺を寄せる。
――教室の時も入れて、計4回時間を止めた。
時間停止の引き金はいたって簡単。思えばいいのだ、時間よ止まれ、と。
教室でも、「時間云々」と考えていたような気がする。
分かったことをまとめる。
時間は約30秒止まり、その間は音も匂いも何も通らない。
匂いについては、由宇で実験したのは内緒だ。匂いが通るなら、シャンプーのようないい匂いがするはずである。
その他にも、物は動かす事が出来たり、水は流れなかったり。
――なぜ時間が止まるかは、敢えて考えない事にしよう。間違いなく頭が混乱する。
「いてっ!」
突然、額に鋭い痛みが走った。
「なにすんだよ、由宇」
「いや、死んでるんじゃないかと思って」
「歩きながら死んでる奴がいたら、弁慶もびっくりだろ」
そう言うと、由宇は手を口元に持って行き、小さく笑みをこぼした。
正直、由宇のでこピンには腹が立ったが、動揺で飽和しそうになっていた頭が、少しすっきりした気がした。

それから15分後。
五樹は、近所の書店で唖然として立ち尽くしていた。
棚に整然と並べられた大量の問題集に、三度目の手を伸ばす。
やはり、結果は同じだった。
時間停止のことで混沌としていた五樹の脳内は、更なる混沌を極めていた。
五樹の顔には、あからさまな不安が浮かんでいる。
「……やっぱり分かるの?」
由宇も、珍しく厳しそうな顔をしている。
「ああ、正直、ここまでとは思わなかった」
厚い問題集を棚に戻す。表紙の3分の1を占める、宣伝文句が書かれた帯には、「これが解けたらあなたは天才」と書かれている。
問題集が並べられた棚、縦2メートル30センチ、横5メートル。その棚にぎっしりと詰められた大量の問題集を手にとって見てみたが、その全てに「あの感覚」を感じた。
「一度解いたことあるとか、そんなんじゃないんだよね」
「・・・残念ながら、記憶に無い」
高級感漂う、真紅の問題集を手に取る。開くと、少し埃っぽい臭いがした。
――五樹は、新しい問題集を買いにこの書店へ来た。
この間買ったばかりのはずの問題集が、知識向上の役に立たなかったからだ。
……理由は、言わずもがな。
思えば、由宇のでこピンがなかったら、書店に寄ろうなどとは思わなかったかもしれない。
それほどまでに、五樹の頭は混沌としていたのだ。
真紅のそれを、棚に戻した。
普段あまり人が手をつけないせいか、問題集のコーナーを何度も往復した五樹の手は、埃で黒ずんでしまっていた。
「どうする、他のとこ行く?」
由宇が、五樹の手に視線を落とす。
「……いや、いいよ」
手を、両の手で叩き合う。
……黒ずみが広がっただけだった。
「今日は帰ろう。付き合わせて悪かったな」
鞄を抱えなおす。
「あーら、そのまま帰るつもり?」
由宇が、いつもの意地の悪そうな笑みを浮かべ、レジスターの上方あたりに掛かっている立派な装飾のされた壁掛け時計を指差した。
……1時47分。
「女の子をこんな時間まで引き止めておいて、それはないんじゃないの?」
由宇がニヤニヤと笑っている。
「なるほど、だが俺にはあまり金がない。高級そうなところはやめてくれよ」
由宇は五樹を伴いながら、近くのファストフード店へ足を向けた。

「ハムッ ハフハフ、ハフッ!! 」
「どうやって食べたらそんな声出るのよ」
由宇は、アイスティーをストローでかき混ぜながら、呆れた顔をしている。
ある程度かき混ぜると、立て肘をつきながら、口先で小さくアイスティーを啜った。
「いや、こういうの食べるのなんて、よく考えたら久しぶりでな。少しテンションが上がってしまった」
よくやったぞド○ルド、このハンバーガーは実によくできている!
万人にとっては美味じゃないかもしれないが、素朴においしいこのハンバーガーは、コンビニ食に慣れた自分には「美味い」と認識できた。
ダブルチーズバーガーを口に詰め込み、ジンジャーエールで嚥下する。
心地よい満腹感が、少しずつ感じられてきた。
「ねぇ五樹」
「ハフッ!!む、なんだ由宇」
「・・・いや、いい」
そう言うと、由宇はシーフードバーガーを口につけた。
由宇の食べ方、いや、女性の食べ方はずいぶんおとなしいのだな、と今更ながら認識した。
「気になるだろうが。構わず言ってくれ」
「え、う、うん」
そういうと、由宇は少し顔を赤らめた。
「・・・明日、明日ひま?」
「明日といわず毎日暇だが」
ダブルチーズバーガーの最後の一口を嚥下した。
由宇の顔が、少しだけ明るくなった。
自分は普段書店くらいにしか立ち寄らないし、家に帰っても勉強するか、孤児院の職員に紹介してもらったテープライターのバイトくらいしかすることがない。
ジンジャーエールを啜る。カップの中の氷が若干溶け出しており、少しだけ味が薄くなっていた。
「……じゃあさ、明日○○遊園地に行こう、いや、来なさい」
今までの経験上、こういう由宇の申し出を断ると、自分の不利益となる場合が多い。
主に、あざが出来たり、生傷が絶えなかったり。
遊園地か、孤児院の仲間と一緒に行った頃以来だな……。
「了解した。何時に行けばいい?」
「そうね、10時半くらい!」
由宇の顔が、喜色で満たされていた。
突然の誘いではあったが、由宇がそれでこんなにも喜んでくれるなら、まんざらでもないか。
安心したのか、由宇がシーフードバーガーを超高速でがっつき始めた。
それを横目に、水の味しかしなくなったジンジャーエールを、音を立ててすすった。
ふと気づいたが、時間停止の事も、問題集の事も、既に自分は悩んでいない。
そもそも悩む理由など無いではないか。
むしろ、普通の人より生きていくうえでいい思いが出来る確立がグッと上がるではないか。
アホか俺は。
いや、むしろ天才か?
アイスティーをすする音が聞こえる。
由宇も食べ終わったようだ。
自分の思考は、「明日なにを着て行くか」という課題で満たされた。

パンダ。
○○遊園地のマスコットキャラクターはパンダである。
日曜日という事もあり、人出はなかなかに多い方だと思う。
コンビニ内の大きなガラス窓に面した雑誌コーナーから、パンダの模型と、遊園地内への入口が見えたのだ。
待ち合わせ場所を遊園地の前にせずに、近くのコンビニにしたことは正解だったようだ。
遊園地前で待ち合わせなどしていたら、由宇を探し出す事は非常に困難だっただろう。
それよりも、自分なりに「間違いは無い」服装をしてきたのだが、どうだろうか。
インターネットを頼りにコムサで買い漁って組み合わせた服装なのだが。
兎にも角にも、10時5分に自分の背中は挨拶代わりの由宇のエルボーを喰らったのである。

「ゆ、由宇。まだ背中痛むぞ」
「ご、ごめん。結構力入れちゃったから……ハハ、ハハハ」
由宇は、ハーフパンツとTシャツという出で立ちだ。
シンプルだが、スタイルのよい体が一番際立って見える格好には相違ないだろう。
とりあえず、目に付いた(由宇が言う)面白そうなモノや、お決まりのジェットコースターには乗った。
由宇も自分も子どものように怖がりはしなかったが、否が応にも揺れるジェットコースターに、自分の背中は対応できなかった。
それのせいで、今に至るわけである。
それと、服装にミスはないようだった。由宇はいつも通りだし、周りから変な目で見られるようなこともない。
心底安心しました、ありがとうございます、インターネット。
「あ、じゃあ次あそこね!」
「おいちょっと引っ張るんじゃなイテッイテテッ」
目に映るのはグルグル回るコーヒーカップ。またの名を「地獄の回転容器」。ハンドルに力を入れれば入れるほど三半規管にダメージを与えるという恐怖のカップだ。
孤児院時代に乗って以来、本物のコーヒーカップにすら怯えるようになってしまうほどのトラウマを自分に植え付けた、(自分の中では)史上最恐の乗り物である。

「ちょっと待て、俺コーヒーカップだけはむr」
「ん? もうチケット買ったわよ」
「うっそぉ」
コーヒーカップで酔わないで済む方法はないのだろうか。
こういうときに限って何も方法が思いつかない。
あるとすれば、ハンドルを回そうとする由宇を全力で止めるくらいか。
「それは無理だ」と冷酷に脳が告げた。そんなご無体な……。
ああもう、ほうとうに楽しいなあ、遊園地ってのは。
『大変長らくお待たせしました〜次の方たちどうぞ〜』
地獄の門番の間の抜けた声が拡声器越しに響く。
待ってません。長らくもありません。できれば永久に順番を回さないで下さい。
「ほら五樹、いっくわよ〜」
由宇と自分は、地獄の門を抜け、地獄の回転容器の中へと向かっていった。
「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」、とはダンテもよく言ったもんだ。

「放縦」「悪意」「獣性」の罪を犯した人々が受けた苦しみを味わい、地獄からの脱出。
自分はようやくペテロの門を開ける鍵を手に入れ、煉獄気分である。
つまり、気分は快方に向かいつつあるということだ。
今は煉獄山……いや、ベンチに座って休んでいる。
「弱いわね〜、コーヒーカップで酔うなんて小学生じゃあるまいし」
「うるせー」
視界が揺らいで、霧の中に、不安と呆れをたたえた由宇の顔が三つに連なっているように見える。
いやいや、これでも良くなったほうだ。さっきまでは、真っ暗闇の中、時折視界にチカッと光が漏れるくらいしか目が機能しないという、大ダメージっぷりであった。前頭部に残った違和感が気持ち悪い。
「それにしてもあっついわねー、遊ぶにはもってこいの天気なんだろうけど」
そう言って、由宇は左手で日光をさえぎる。
日は高く上っている。
『2時だパンダーーーーーーーーーッ!!! アバババババババババ!!!』
でっかい時計を持ったパンダのオブジェクトが、そろそろ腹が鳴ってくるであろう時間帯を報せる。とても腹が鳴るほどの余裕はないが。
「五樹、おなか減った」
ほほう、それでそれで?
「あまり私を怒らせないほうがいいわ」
オーケイオーケイ、レストランにエスコートしようか、お嬢さん。
でも、お代は割り勘でどうか。
「……」
「頼むよ」
無言で由宇が鞄から取り出すのは可愛らしい袋。それから出てくるのは少し大きめな弁当箱。
まさか、一昨日のことを本気で?
いや、うれしいことには変わりないが。
「……お、おいくらですか」
「タダでいいわよ、……バカ」
わざわざ作って来てくれた弁当を、「食欲がない」の一言で一蹴するほど自分は馬鹿ではない。
由宇はというと、目をそらし、顔を赤らめながら、時折こちらの顔をチラチラと覗くばかりだ。
あまりにも空気を読んだ、自分の腹が鳴った。
マスローの欲求段階説の一つ、生理的欲求キタコレ。

「ハムッ ハフハフ、ハフッ!!」
「……もう突っ込む気も起きないわ」
「由宇、うまいぞ」
「えっ、あっ、ほんとう……?」
こいつめ、毎日こんな上手い飯食ってやがったのか。
玉子焼きの程よい柔らかさと甘さ。噛むとプリッと肉汁を噴出すタコさんウィンナー。絶妙な塩加減のオニギリ。どれをとっても高レベルである。
どんな大物レポーターでも、この弁当には舌鼓を打たずにはいられまい。
ん、まさか親が作ったものではあるまいな?
「まさか! 毎日自分で作ってるわよ」
そう話す由宇は、いつも学校で弁当を食べるときよりも嬉々としている。
「ハフッ!! ところでさ、由宇」
「なに?」
辺りを見渡す。遊園地東よりの草原地帯には、子連れ客やらカップルやらが集まり、各々晴天の下での食事を楽しんでいる。その中の一組である自分と由宇。
「普通、遊園地内って弁当の持ち込み禁止じゃないk」
「この遊園地は特殊なのだっ! 決して某ブラジャーが一度も遊園地に行ったことがない故のミスじゃないぞ!」
突然現れたのは、頭にブラジャーを被った変質者だった。下半身スパッツに、上半身裸というその格好は、どこか江頭2:50を髣髴とさせる。
変質者の後ろから、幾重にも重なった警備員の姿が見え隠れしていた。おーい、捕まりますよ?
「む、追手か! ぐわーっ! き、貴様、何をする! 離せぇーーーーーっ!」
暴れる変質者は、警備員に羽交い絞めにされながら、どこかへ連行されていった。さて、懲役何年に処されるのだろうか。ワイドショーが楽しみだ。
「……それにしても、敢えて書き直さないところに趣を感じるな」
「フラグが台無しになるからね」
「ん、フラグ?」
「なんでもない。それより、この塩鯖どう?」
「超、んまいっす」
もう、目眩は感じなかった。

弁当を食べるまではまだ我慢できたのだが。
「あっちぃ……」
「アツ……」
由宇の弁当をすべて平らげたのはもう一時間も前。それからさらに、ウォータースライダーやら、ゴーカートやらに乗った。
「(涼しいっていったらやっぱり水じゃね?)」
「(風を浴びれば涼しいんじゃね?)」
どちらも効果はなかった。
エネルギーにエンコードされ、熱へと変換する由宇の弁当。
蒸しに蒸されたコンクリートの地面。
ただでさえ暑いのに、相乗効果でヒートアップするこのカラダ。
暑い。暑すぎる。……いや、万人皆暑いのだろうがな。
そうだとしても学校のクーラーに慣れたこの学生ボディにこの暑さは拷問だ。
そう思う自分の目に飛び込んだある建設物。
「ちょうどいい、由宇、あれ入るぞ!」
「え? ちょ、あそこは駄目!あたし駄目なの!」
「よいではないかよいではないか」
「いやぁぁぁああああ〜〜〜」

「いやぁぁぁああああ〜〜〜っっ!!!」
ヒュードロドローヤラナイカー
いま自分たちが居るのは、真っ暗なお化け屋敷の、人魂のような、青白い光が漂う墓所の中。
そしていま出てきたのは、カマ掘り妖怪「阿部高知」。
男1人で墓地を歩いていると、襲ってきて肛門を攻撃するという恐ろしい妖怪だ。
イヤに爽やかな顔の「阿部高地」と、苦悶の表情をたたえた、襲われている男の人形が印象深い。
そう、お化け屋敷に入った理由は明快単純。
怖いものでも見てこの暑さを和らげようではないか、という思い付きによるものである。
正直、自分は「心霊だろうがグロだろうが蓮コラだろうがなんでもこい」という猛者だと自覚しているので、恐怖感による冷却効果は期待できない。実際、怖がっているのは由宇1人である。
だがしかし、少なくとも外に居るよりはマシだろう。クーラー入ってるしね。
……そう思っていたのだが、自分の身体は、意に反して火照りっぱなしである。
その理由とは。
フヒヒヒヒヒ、スンマセーーーン
「いっ、きゃぁぁぁっぁあああ!」
腕にしがみついてくる由宇である。
すいません、胸当たってますよ、お嬢さん。
それにしても、由宇がこういうモノが苦手だったとは。いい事を知ったものだ。これからは、由宇が襲ってきた時には、心霊写真の類でも見せればいい。

そうこうしているうちに、光の漏れるドアが見えてきた。看板には、「出口」の文字が見える。
「ひぐぅっ、うぅ……」
自分の腕にしがみつき、泣きじゃくる由宇。
これはいけない。新鮮すぎる。由宇、可愛いよ由宇。
「ば、ばかぁ」
言葉に力が入っていない。
お化け屋敷の外に出ても、由宇は人目をはばからず泣いた。
視線を感じる。自分を責めるような目つきの女や、面白い物でも見るような男、ただ単に傍観するだけの人。
さすがに、これ以上由宇を好奇の視線に当てるわけにはいかない。
……だがしかし、無理やりお化け屋敷に連れ込んだのは自分だ。
確かに可愛いのだが、それ以上に罪悪感と自罰意識がつのる。
「……ちょっと、休憩所まで行こうか」
ようやく自分が紡ぎだした言葉は、そんなものだった。
由宇は小さくうなずく。
「……すまん」
由宇の小さな手を引っ張って、最寄の休憩所まで向かった。

クーラーの利いた、木造の休憩所の中は、どういうわけか人っ子一人居なかった。
初めからここで身体を冷やせばよかったな、と考えながら。
「…………」
自分と由宇に、言葉はない。何か喋らないと気まずい。
「……その、お前がああいうの苦手だとは知らなかったから」
由宇は微動だにしない。
その由宇の態度が、自分の心を締め付ける。
「その、すまんかった!」
自分でも大声を出すつもりはなかったのだが、どうにも声に力がこもってしまった。
由宇は肩を少しビクリと揺らして、小さくかぶりを振った。
「……あたしも、五樹を無理やりコーヒーカップに乗せたもん」
もう涙声ではない。すこしホッとした。
「気にすんなよ」
それしか言えない。もっと気の利いた言葉はないものか。
次に何を言うか、「天才」とまで謳われる脳で考える。悔しいが、なにも思いつかない。
「……ねぇ、五樹。あたしと居て、楽しい?」
先に言葉を吐いたのは、由宇の方だった。
「……孤児院の奴らといった時の数千倍は楽しい」

嘘ではない。
職員が優しかったという事も、あながち嘘ではない。
それでも、親も姿を見せず、門の前に放置されていた自分に、真の意味で優しい職員などいるだろうか。
同情は感じた。だがしかし、同情というものは、長年付き合っていると、薄れていくものだ。
小学校高学年になるころには、職員の優しさが空ろなものだという事には気づいていた。
そんな奴らと行く遊園地に、楽しみなど見出せるだろうか。
もう紛失してしまったが、そのころ遊園地で撮った集合写真には、華やぐ笑顔の中、表情のない自分の顔が写っている。
中学校に通う3年間は、時折その写真の自分の表情を思い出しながら、こつこつと、新聞配達のアルバイトに勤しんだ。
「出て行く」。その決意のもとに。
「なあ、由宇」
由宇が頭を上げる。もう涙は乾いている。
「昨日からずっと気になってたんだが」
言葉を紡ぐ。
自分と一瞬目を合わせた由宇の目線は、床に落ちている。
自分も床に目を落とす。
「……なんで、俺を遊園地なんかに誘ったんだ?」
由宇を見ずに言う。そうした方が自然な気がする。
「ばっかねぇ」
思わず顔を上げる。
どういうわけか、いつもの由宇の調子だ。すこしばかり呆気に取られた。
「今日は何日?」
既視感に襲われたが、素直に答える。
「……21日」
「今回は、月も関係あるわ」
そう由宇は笑う。いつもの、どこかイタズラっぽい笑みだ。
「5月21日だ」
そう言ってみたものの、今日の日付になにか特殊な事象を見出せない自分は、困惑するよりほかになかった。

「もう、まだ思い出せないの?」
由宇はため息を吐いた。
これにもなんとなく既視感を感じる。
黙って、由宇の答えを待つ。
「今日は、あなたの誕生日よ」
「……あ」
そうだ、いつから忘れてしまっていたのだろうか。今日は自分の誕生日じゃないか。
中学生の頃くらいから忘れていた気がする。
孤児院の職員も、特に気にかけている様子はなかった。
優しさが空ろだという、証明。それが自分の誕生日という認識。
だが、今は……
「なにか物でもあげればいいんじゃないかと思っていたけど、何も思いつかなくて。遊園地と、弁当でいいかな、なんて……その、誕生日、おめでとう」
由宇が、そっぽを向きながら話す。チラと見えるその頬は、薄紅に染まっている。
「……ありがとう」
不意に、なにかが自分の頬を伝った。
驚いて頬に手を当てる。
――涙?
「……い、五樹?」
なにかが自分からこみ上がる。
それに自分は抗う術を持たず、為されるがままに。涙を流し続ける。
責任も取れない、駄目人間の両親が自分を産み落とした、一番忌まわしい日。それなのに。それなのに、この感情はなんだ。由宇の前だぞ。泣くな、男だろう。
手で、涙を拭い取る。
ふと、あたたかい何かが、自分の身体を包んだ。
うっすらと鼻腔をつく、優しいシャンプーの香り。
いよいよ、自分の感情はピークだ。
自分は、そのあたたかさに身を委ね、嗚咽した。
優しく自分の背中をさする由宇は、さながら母親のようだ。
由宇は、自分の過去に隠れた、黒い感情を知らない。それでも、すべてを見透かされているような。しかし、嫌悪はない。
自分は、その優しいあたたかさを、強く、抱きしめた。強く、強く、抱きしめた。

気が付くと、見るも見事な夕陽が浮かんでいる。
夕陽が照らすは、繋がれた自分の手と、由宇の手。
ちょっと気恥ずかしい気もするが、繋がれた手を変な目で見る人は居ない。
「明日は雨だなあ」
手を繋いだまま、左手を傘にして夕陽を眺める。
夕陽は、もう沈みに入っている。
「うん……」
自分の涙は、あっさりと乾いた。なんとなく、心の痞えも取れた気がする。
『もう6時だパンダーーーーーーーーーッ!!! よい子はさっさと帰るクマーーーーーーっ』
一応突っ込んでおこう、お前はパンダだ。
出口を出ると、由宇がやっと顔を上げた。
「……明日も、弁当作ってきていい?」
夕陽のせいか、いつものことなのかは知らないが、相も変わらず由宇の顔は薄紅色だ。
いつもと違う事といえば、目には恍惚の色が浮かんでいるという事だろうか。
「はは、ホークになんて言い訳すればいいのか考えないとな」
由宇も、自分も笑う。
心地よい悩み事だ。悩みを共有するということは、確かに気が楽になるものだった。
それからは、言葉少なに色々な事を話しながら、家路へと歩を進ませた。

もう、分かれ道だ。この横断歩道を由宇が渡れば、そのまま互いに視界から消え失せる。
手を離す。
自分の感情以上に、寂しそうに手は離れた。別れた手を、手が見つめあう。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
手を振る由宇に、手を振り返す。
大きな道路だが、車は少ない。停止している車は、下り線にしかいない。
……それは、由宇の足が横断歩道の中ほどに差し掛かったときに起きた。
上り線から、轟音が聞こえてきたのだ。
首をそちらに回すと、大きな光をたたえた、さながら怪物のような巨大なトラックが、轟音を上げて横断歩道へと向かっていた。
横断歩道の信号はまだ青だ。しかし、減速の兆しはない。
自分は、身を翻して由宇のもとへと走った。
轟音が近づく。
走る。
近づく。
由宇も、ようやくトラックの存在と、走って近づく自分に気づいたようだ。
その顔には、困惑と恐怖が浮かんでいる。
もう少しだ、もう少しで由宇にこの手が届く。
トラックはもう目の前だ。
由宇に、手が触れた。
力の限り突き飛ばす。
「明日の弁当、たのしみにしてるぞ」
すべて言えたか言えなかったか。
があんという衝撃が、自分を襲った。
視界が一瞬で消え失せ、すべての感覚が消え失せる気がした。
心の中で、自分は苦笑していた。
ああ、俺は馬鹿だなあ。時間を止めればよかったじゃないか。なんでこんな肝心な時に思い出せないんだ。
「ケアレスミス」という言葉が頭に浮かんだ。
その言葉を充分に吟味して、もういちど苦笑した。
「……樹! 五樹!」
ああ、聴覚は生きていたんだな。
自分は冷ややかだった。
「五樹! 五樹ぃ!」
由宇の声は、自分の名前を叫び続ける。
「よかった、無事だったんだな」
そう言おうとしたが、自分の声が耳朶を打つことはなかった。
由宇の叫び声が、嗚咽へと変わるころ。
自分は、また「あの感覚」を感じていた。
何度も問題を履修した、「あの感覚」である。
冗談きついぜ。死ぬ事にも慣れてるってか?は、は…は…
嗚咽すらも聞こえなくなり、段々と薄れていく自分の意識。
やがて、考える事も億劫になり、自分の脳内は、暗闇で満たされた。

五樹は、死んだ。

 

「次は、21973回目です……私は、いつでも貴方を見守っています……」

「ぅおあっ!!」
全身を這う、虫のようなおぞましい感覚に、おもわずベッドの上を飛び跳ねた。
余程怖い夢を自分は見たのか、知らず知らずのうちに右腕をまっすぐと突き出しており、その腕からは筋肉の硬直が感じ取れた。
左手で多少強く揉み解し、ゆっくり、ゆっくりと腕を下ろす。釣ってはいないみたいだ。
せまいアパート内に、マラソンを走りきった走者のような、荒げた自分の呼吸音のみが響く。
心臓が、砂漠を走り回った車のエンジンのようにアイドリングしていた。
薄く背中に纏わりつく、汗の感覚が気持ち悪い。
ベッド脇の、デジタル目覚まし時計に目を遣る。
薄緑の発光色で、『5/19 5:11 (Fri)』と表記されていた。
「……はぁ」
それにしても、この疲労感と、途方もない絶望感はなんだろうか。
一体、自分はどんな夢を見た?
五樹は、頭の中でじわじわと消えつつあるイメージを、サルベージし始めた。
……まず、光だ、それと焦燥感。
自分は走っている。理由はよく思い出せないが、焦っていたのだ。左方向からの光が強く照っていて、自分の網膜を刺激している。光はどんどん強くなり、突然、焦燥感が消えた。視界が利かなくなるほどの光。安心感を得る瞬間も無く、衝撃が自分を襲う……。
「うっ」
瞬間、針で刺すような、小さく、鋭い痛みが頭を襲った。眼を閉じ、痛みのした患部に手を当てる。
……なにかを思い出しそうな感覚?
しばしの間、ベッドの上で呆然と「なに」を忘れているか黙々と考えてみた。だが、これといった解答は、浮かんでこなかった。
――夢だ、忘れろ。
なにかを思い出しそうな感覚を早くも忘れた頃、もう一度、時計に目を遣った。
『5/19 5:32 (Fri)』。
普段なら、ふんぞりかえって「なんだまだ5時半か、余裕余裕」と二度寝をする時間帯だ。
しかし、どういうわけか、今日に限ってそんな気が全く起きない。さきほど頭の奥を貫いた鋭痛のせいで、脳が覚醒状態に移りつつあった。
大きなあくびをしながら、洗顔をすべくキッチンへと向かった。

「急だが、このクラスに新しく加わる転校生がいる。さぁ、入ってきてくれ」
特注なんじゃないかと疑わせるような奇異なフレームの眼鏡をかけ直しながら、担任の中島がドアに向かって手を仰いだ。
ドアが開くとともに、女子の黄色い声と、男子の……なんとも形容しがたいどす黒い声が教室を埋め尽くした。ちなみに、自分はそのどちらにも属していない事を明確に示しておくべきだろう。要するに、自分は普段通りにしているのである。
壇上へと上がり、若干長めの髪をさらりと流し、その整った顔を更に外気に晒したその転校生は、アルカイックなスマイルを顔に浮かべている。
「ご紹介に預かりました、高山和哉です。みなさん、よろしくお願いします」
女子はもうお団子状態である。誰もが我先にと机を押しのけ、その転校生に向かって「わたしは○○です」やら「彼女はいるんですか」やら「付き合ってください」など。
……付き合ってくださいはちょっと早すぎるのではないか? おっと、なんと生徒会長の姿もある。これはなかなか拝めない光景だ。しっかりと目玉に焼き付けておくとしよう。
一方、男子はというと、まるで、「明日未明、超巨大隕石が落ちて地球滅亡、逃げ場なし!」というような顔をしている。特にホークなどひどいものだ。クロマティ高校に入っても違和感のないような、極悪な顔をしている。
「趣味はスポーツです。好きな食べ物はキウイ。残念ながら、彼女はいませんね。いつか理想の女性が現れるとよいのですが……」
女子の歓声のオクターブが更に1……いや2程上がった。今度は挙手のオンパレードである。隣り合った女子が目から火花を散らしながら、なんだかよくわからない戦いを繰り広げている。
男子は……超巨大隕石にテポドン2が200本おまけつきのような……もういいか。

背後に気配を感じた。
なんとなく由宇が気になって、後ろを向く。
由宇の表情は、まるで超巨大隕石とテポドン2が200本と超最強生物兵器スプーが力強くスクラムを組んだような、男子よりも凶悪な表情を転校生に向けている。
……ん、待て。由宇は女であって、男ではない。なぜ由宇にこんな辛辣な表情をする道理があるのか。
「おい由宇、一体全体どうしたんだ」
「なんでもない」
まさか、こいつの愛情表現の表情は超巨大隕石とテポドン2が200本と超最ええいめんどくさい。こんなひどい表情なのだろうか。
それよりもだ、由宇に違和感を感じてしょうがない。特に二行上の「なんでもない」など、いつもの由宇らしくないこと受けあいだ。
それに、由宇のこの表情は、男子たちのようなどす黒い感情ではなく、どこか超自然的な、もしくは野性的な感情を孕んでいるように思えて仕方がないのである。
「だから、なんでもないって!」
由宇の顔が笑みを紡ぎだした。
――どこか見知った印象のある、透明感のあるその目を除いては。
背筋に昇る悪寒を、自分は禁じえなかった。

転校生の紹介が終わったあとの教室は、授業のある土曜日のような殺伐な雰囲気と、コンサート会場にいるジャニオタ群のような雰囲気を併せ持った、灰色のオーラを纏っていた。
必然か偶然か高山と隣通しに座ることとなったホークは、さっきから壁に向かって一心不乱にシャドーボクシングを繰り返している。それを見ても、未だにクリーンな笑顔を浮かべ続ける高山。
ホークよ、俺の予想では高山は手強いぞ。無駄な行動は慎んでおくべきだ。
ちなみに、由宇の違和感はもうなくなった。自分の見間違いだったのだろうか。そうであってほしいと願うばかりだ。
ちらと目線を由宇の方に遣り、またすぐに机上の問題集に目を落とした。
この間買ったばかりの、超難関を謳う問題集だ。なんでも、専門の人間ですら解く事が困難であるらしい。艶々としたカバーが美しい。
……のにだ。この問題集は全く役に立たない。今しがた問題の総チェックが終わったばかりなのだが、どういうわけか、すべての問題が「一度解いた事があるかのように」解かるのだ。
付け足しておくが、自分は同じ問題集を二冊買うようなミスは絶対にしていない。ついでに早期性痴呆症の疑いもない。
「くそ、1500円損した……」
椅子に背中を預け、頭を後ろにもたげる。
アルバイトで稼ぐ一人暮らしのこの身には、1500円の無駄な出費は痛すぎる。もうちょっと、テープライティングの量を増やすか……
「ねぇ五樹、これ解ける?」
そう言って、A4サイズのいかにもプリンターから印刷してきましたというような紙をこちらに差し出したのは、由宇だった。
「んん? なんだこれ」
紙を手にとって見てみると、どうもそれはなにかの式のようだった。物理系の式らしく、ずらりと縦に並んだ、幾何学的な図が印象深い。
「A博士の遺した式よ。昨日インターネットで見つけたの」
そういうと由宇は、小さな人形がぶら下がっている可愛らしい鞄から電子辞書を取り出し、薄いキーボードに指を走らせた。
見出し語には、『A博士』とタイピングされてある。味気のない液晶に、几帳面な文字がずらりと並ぶ。
『(???? 〜 1931) 生まれも年齢も育ちも不詳の理論物理学者であり、時間物理学者。1912年、突如ベルンに現れた。(中略)
主に時間移動についての研究に力を入れており、彼の書く非常に高度な物理式は、オーバーテクノロジーの域を超えていた。「わたしは未来から来た」という言葉を遺した、変人としても知られている.』
「……そのA博士が残した式が、これなのか?」
五樹は、左斜め上の角をホッチキスで止められたプリントをめくった。全部で12ページ。1ページ目には、赤文字ででかでかと「Movement equation of time」と書いてある。
Movement equation of time、直訳すると……時間移動方程式?
「ええ、電子辞書を見て分かるとおり、A博士は時間物理学者の権威だったわ」
由宇はそういうと、パタンと電子辞書を閉じ、また鞄の中に戻した。顔には、少しの笑みが浮かんでいる。
「もし彼が生まれたのがもっと未来だったら、時間移動装置が作れたとも言われていたわ。あ、もちろん私達の時代では無理らしいけどね」
会話が終わるのを見計らったかのように、チャイムが鳴り響いた。数学教師の「ザビエル」が、のっしのっしと教室に入ってくる。
「それあげるから解いてみて。大丈夫、五樹ならいつか解けるわよ」
そういうと由宇は、机内から数学一式を取り出しに掛かった。自分も慌てて鞄の中を探る。
なんとなく、最後の由宇の言葉に、一抹の違和感を感じた。だが、自分の意識は、机上の時間移動方程式に興味を引かれていた。

五樹は少しばかり憤慨していた。というのも、今日が19日だからだ。
どうして19日だと憤慨するのかというと、五樹の出席番号が19番だからである。
何処の学校でもそうなのかもしれないが、少なくとも五樹の学校では、毎回日付にあたる出席番号の生徒が、教壇の上で問題を解かされる運命にある。
――普段の自分だったら、たとえそれが面倒くさくても、憤慨する事まではないのだ。
しかし、今は違う。
机上にある、A4サイズのプリント群に目を落とす。
五樹は、由宇から渡されたA博士の時間移動方程式に、並々ならぬ興味を抱いた。
自分が生まれるより半世紀以上も前に存在していた人物が、現代でも実現できないほどの技術を構想できる頭脳を誇っていた。
五樹は、単なる興味だけでなく、そのオーバーテクノロジーな頭脳に対しての、少々の嫉妬も禁じえなかった。
解きたい。この式を解いてみたい。そして、この博士を越えたい。
それなのにだ。今日が19日であるばっかりに、キリのよくないところで教師からの横槍が差し、満足に式を解く事が適わない。どうにもこうにも尻すぼみな状態になってしまい、その不満が憤慨へと変貌を遂げる。
チャイムが鳴り、4時限目の終了と、昼休みの始まりを告げる。
溜め息をつき、机の横に引っ掛けたスーパーの袋に手をかけた。
ホークと由宇はすでに机を自分の周りに移動して、いつもの昼休み食事態勢をとっていた。
「五樹、解けた?」
「今日は、少しばかり内職をしにくい日だ……」
由宇に返答をしながら、菓子パンの袋を開ける。少し溶けたチーズの香り。今日の昼食は、ハムチーズパンと焼きそばパン。
「ちくしょうあのイケメンめ……この妬みの業火、貴様を焼き尽くすまで消えはせぬぞ……」
「高山が、なんか言ってきたのか?」
一応、物騒な物言いをするホークにも反応してやる事にする。ハムチーズパンを口に含む。からしが利いているせいか、少しばかり辛かった。
「高山は何も言ってこなかったさ。でもな、あいつと隣り合わせてしまったばっかりに、俺は女子からのラブレターをあいつに渡す役に徹しなければならなかったんだ! この俺の気持ちが分かるか? なーにが『高山くんへ(はぁと)』だよ! 大体、授業中にラブレターを」
「そういや、高山くんいないね」
「女子の数も少ないな」
教室は、黙々と弁当を食べ続ける男子と、由宇を含めたほんの少人数の女子しかいなかった。女の精神構造が知れるな。少なくとも由宇は、イケメンに揺らぐ事はなかったようだが。
いや、そうでもないか? 自分は、高山の自己紹介のときに見た、由宇の凶悪な顔を思い出した。
鋭く刺す視線、きつく一の字に閉められた唇、その表情は、
超自然的な何か、もしくは野性的な何かを孕んでいる。
自分でも分かっているんだ。あの雰囲気、どこかで飽きるほど感じた事がある。しかし、その「どこか」が分からない……

「どうしたの五樹。黙り込んじゃって」
突然話しかけられて、ビクリと肩を揺らした。由宇の顔を一瞥する。
「……いや、なんでもない」
「そう? へんな五樹」
気のせいだ。自分の心に強く言い聞かせる。
よく見ろ。どこも変わっちゃいない、いつもの由宇じゃないか。
頭を振って、雑念を飛ばした。焼きそばパンの封を切る。香ばしいソースの臭いが鼻腔をついた。
「でもなんか、高山の野郎変なんだよな」
こいつの存在を忘れていた。
「どう変なんだ?」
「いや、言わない方がいいかも」
ホークがニヤニヤしている。ムカつく野郎だ。「言わない方がいいかも」と言われたら、逆に言わせたくなるのが人間の性というものじゃないか。
「さっさと言いやがれ某有名AV男優」
「お前は俺を怒らせた」
「ほほう、それでそれで?」
「はいはい二人とも落ち着いて。で、高山くんがどうしたの?私も気になる」
ホークは一度自分を睨みつけた後、口をへの字に歪め、ゆっくりと口を開いた。
「……五樹。お前、高山には気をつけたほうがいいぜ」
なんとも思わせぶりな言い方だ。さっさと続きをお願いしたい。

急かすと、ホークは「まぁまぁ」と言いながら自分を抑えて、またゆっくりと口を開く。
「あいつな、授業中ずっと五樹の方を見ていたぞ」
「……はぁ?」
「まだ分からないのか? あいつはきっとモーホーなんだよ。うへぇ、おそろしや」
全くもってわけがわからない。高山がモーホー? あいつは自己紹介のとき、「残念ながら、彼女はいませんね。いつか理想の女性が現れるとよいのですが……」と言っていたではないか。
「さぁ、その自己紹介が嘘なのかもしれないし、俺の気のせいかもしれん。どっちにしろ、気をつけとけってこった」
そういうと、ホークは下品な音を立ててそばを口の中に流し込んだ。
そういえば、GANTZのイケメンキャラもホモだったな……
「はい神山五樹いるー?」
突然、我らが2年5組の教室の扉が、勢いよく開けられた。
扉の向こうにいたのは、腰まで伸びた長い髪を持つ少女だった。一度も見たことのない生徒である。この少女も転校生なのだろうか。自分は全ての生徒の名前と顔を覚えているが、この少女は見たことがない。
少女が教室内に入ってきた途端、ホークとその他男子が机から飛び上り、一斉に『ワッフルワッフル!』と頭上から胸部辺りにかけて手を振り出した。どう見ても異常な光景である。
少女はというと、眉間にシワを寄せ、顔を嫌悪に歪ませている。
……よく見てみると、少女はかなり整った顔立ちをしているようだT。腰まで伸びた、少し茶色っぽい髪。釣り目がちだが、どこか凛とした印象を持たせる目。高い鼻。スッとした輪郭。そして、スリムな身体。男子たちの大合唱もうなずける気がする。
「うるさいうるさいうるさい! 黙れイカ臭い野郎ども! あたしが用があるのは神山五樹なの! さぁ、名乗り出なさい! 神山五樹! 」
男子たちの視線が一斉に自分に刺さった。
頼むからそんな目で見ないでくれ。特にホーク。そのバタフライナイフはなんですか。
由宇を見た。「別にいいんじゃない? 」と肩をすくめる。少しは妬いてくれてもいいのでは……
おずおずと手を挙げる。
自分を一瞥した少女は、つかつかと早足に歩み寄り、挙げられた自分の腕を掴んだ。
「あんたが神山五樹ね。彼女とお食事中悪いけど、ちょっと来て貰うわ」
返答も聞かず、少女は自分の腕を掴んだまま、自分を教室の外へと引っ張り出す。
少女はかなり早足で引っ張るので、幾度も転びそうになった。廊下にいた生徒から突き刺さる好奇の目線。少女はそんなもの気にしていないのか、一瞥もせずに自分の腕を引っ張り続ける。

少女の歩調と自分の歩調が合ってきたころ、ようやく腕を引っ張る少女の力が弱まった。
着いた場所は、屋上へ続く、資材が乱雑に置かれた空きスペースだった。屋上へ続くといっても、鍵がないと扉は開かない。
大きく肩で呼吸をする。引っ張られながら歩くのは、かなり疲れるものだ。
引っ張る方はそうでもないのか、自分と比べて少女は全く呼気を荒げていない。
「はぁ……なんなんだよ、お前」
「緑川茜」
「は? 」
「あたしの名前よ。もう少しここで待ってて。じきに来るから」
「じきに来るって、何が」
「……」
質問に答える気はないらしい。少女……いや緑川茜は、両手で腕を組んで目を瞑り、壁に寄りかかっている。
溜め息を一つつき、自分も緑川と反対方向の壁に寄りかかった。
緑川は片目を開けてこちらの様子をしばし見つめていたが、すぐにその眼を閉じた。
よほど大事な用なのだろうか。
この高校に入って以来さんざん由宇に振り回されていたせいか、訳の分からない状況にはいささか慣れている。
ましてや、腕を掴まれてあちこちを振り回された経験など、腐るほどある。
自分は、いたって冷静だった。普通の男子だったら、こうはいくまい。
「まったく、この高校には参ったわ。この学校は、男子が転校生を異常なほど歓迎する風習でもあるの? 」
不意に緑川から声をかけられて、ようやく「こいつは転校生なんじゃないか」という疑問が確信に変わった。目は瞑られたままである。
「こっちの質問に答えろ」と言いたくなったが、ここは引き下がっておく事にしよう。
「……なに、こっちのクラスは女子が転校生を異常なほど歓迎したさ」
「訳わかんない」
そうだろうね。自分もそう思うよ。
「すみません、少し遅れました」
高すぎもなく、低すぎもしない、自然に耳に入ってくるようなクリーンな男声が、階下から聞こえた。ゆっくりとした歩調で姿を現したその男は、高山和哉であった。
「遅い」
緑川が壁から離れた。
「女子を撒くのに時間がかかりました。私は、あなたほど性格が過激に作られてありませんからね」
にっこりと笑う高山を見て、緑川はフンと鼻を鳴らした。今度はこちらを睨みつける。
「率直に言っておくわ。私たちはあなたを殺す。それが未来のためなのよ」
「………………」
唖然とした。自分を、殺すだって? そして、未来のためだって? この女は電波なのか? 百歩譲って、この言葉を信頼するとしよう。
そうすると、なぜ自分を殺す事が未来のためになるんだ。将来大罪を犯すから、今のうちに殺しておくとかいうヤツじゃないだろうな。パクリにもほどがあるぞ、それは。
「ええ、その考えは半分ほど当たっています。間接的にあなたは未来に大罪を犯すとでもいいますか……いえ、まだこの時点では確定事項ではありませんが」
クリーンな笑みを浮かべていた高山が、これまたクリーンに口を開いた。
それを確認した緑川が、億劫そうに言う。
「説明は私には向かないわ。高山、あなたが説明しておいて」
そういうと、長い髪をなびかせながら、階段を下っていく。階段の中ほどで、緑川は立ち止まった。
こちらを睨むと、スカートのポケットから、鈍く光る手のひらサイズの折りたたみナイフを取り出した。銀色の部分を引くと、バチンと音を立てて刃が飛び出し、半月型に変貌する。
……カランビット・ナイフだ。刃も柄もどこか黒々としていて、その凶悪ま風貌をさらに引き立てている。
「明日から、本気であなたを始末にかかるわ。首を洗って待っていなさい」

ナイフをポケットにしまうと、緑川はまた階段を下りはじめ、程なくすると、緑川の姿は見えなくなった。
とんだ電波女だ。俺の隣でクリーンな笑顔を保ち続けるこいつもだがな。
「信じていただけませんか」
「電波女と電波男が手を組んで俺を貶めようとしているようにしか思えないね」
階段に足を踏み入れる。これまた丁度よくチャイムが鳴った。5時限目の予鈴だ。
「もう昼休みが終わってしまったじゃないか……授業中に満足に内職が出来なかったから、この時間を使って解くつもりだったのに」
「それは……とんだ手間をおかけしました」
高山の口調は改まっている。しかし、そのスマイルが気に喰わない。こいつには、なにか思惑がある。そんな気がする。いいだろう。つきあってやろうじゃないか。
「お前らの話を全面的に信じるとしよう。そうすると、お前ら二人は未来人という事になる」
「厳密には違いますが……まぁ、そういうことになるでしょうね」
「で、俺は未来にとんでもないことをしでかすと」
「それも厳密には違います。あなたは……失礼、禁則事項です」
「……まあいい。それで、お前ら二人は、未来でとんでもないことをしでかす俺を消す為に、この世界に来たと」
「そうです。しかし、緑川と僕の行動パターンは違います。緑川は積極的にあなたを処理しようとする。故に革新派。それに対して僕は、あなたを処理する事も念頭に入れ、別の『処理法』を模索する。故に穏健派です」
まとめてみるとしよう。
緑川と高山は、未来から送られてきた処理班である。緑川は革新派。積極的に自分を殺そうとする。
高山は穏健派。自分を処理する事を念頭に入れておきながら、別の方法を模索する。つまり、自分に『とんでもないこと』をしでかさせないようにする、ということか?
「ええ、『とんでもないこと』をしでかさせない……いえ、起こさせないようにする方法は、二つあるのです。
一つは、緑川の行動の理念、『あなたを殺すこと』です。こちらはできれば避けるべきことです。しかし、もう一つの方法がこれまたとてつもなく難解なのです」
そう言うと、高山は表情を少しばかり曇らせた。それを見て思ったのだが、こいつには笑顔以外の表情が似合わない。
「なにが難解なんだ? 」
「……あなたの存在には、『二つの未来』が関わっているのです」
「はぁ? 」
「我々を送った未来をAとしましょう。そうすると、もう一つの未来がBです。Bという未来は、時間物理以外の文明がなかなか進化せず、苛立っていました。
Aという未来は、その苛立ちの生産物とでも言いましょうか」
「ちょっと待て、話が訳のわからない方向へ向かっているぞ」
出し抜けに、チャイムが鳴った。五時限目始まりの合図だ。
「Bという未来は、止まった文明を強制的に動かす術を作り上げました。……もう一つの難解な方法とは、その術を破る事なのです」
理解の域に達していない。それが自分の率直な感想だった。止まった文明を動かす術がなんだというのだ? それが自分の何に関係がある。自分は未来の文明を動かせるほど、偉い人間ではない。
それこそ、アインシュタインでも復活させてみたらどうだろうか。彼ならきっといい働きをするだろうさ。
「Bという未来は、既死者蘇生術も確立していません。時間物理以外の文明は進化していないのです」
「そうかい。じゃあ、止まった文明を動かす術というのはなんだい。それが俺とどう関係するんだ? 」
高山は笑みを浮かべた。しかし、その笑顔には影が差している。
「……短期時間軸拘留プログラム。あなたは既に、5月19日から5月21日にかけての三日間を21973回繰り返しています。……そして、これからも」
溜め息を一つ。短期時間軸拘留プログラムだって? 三日間を20000回以上繰り返している?
それになんの意味がある。自分に関係しているのなら、なにかしら変化が現れているはずだろう。俺はなにも変わっていない。これについてはどう説明をつけるんだ。
「それを証明することはできるのか? 」
「残念ながら、無理ですね」

もう一つ、溜め息を。
「そうか。5時限目に遅刻だ。急いで教室に戻ったほうがいいぞ」
階段を再び下りる。とんだ無駄骨だった。緑川と高山は、正真正銘の電波なのだろう。なに心配するな。お前らには電波という欠点を補って余りある容姿がある。大いにそれを使いこなすといいさ。
「信じてくれないのですか? 」
信じさせようとしているのだろうが、声のトーンは全く変わっていない。これ以上、自分を妄想に巻き込まないでくれ。迷惑だ。
「信じて然るべき証拠がない。信じられると思うか? 」
立ち止まり、上方の高山を睨む。彼も同じようにこちらを睨んでいた。
「あともうひとつ聞いておく。お前はホモなのか? 」
「おっしゃっている意味がわかりませんが……ノーマルです」
「そうか、それならいいんだ」
屋上前の資材置き場を後にして、早足で階段を下りた。
教室に着いたら、案の定教師に怒られた。

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