95(42停止目)

 

 狙撃手は見ていた。静謐な青空の下で、この世で唯一の神と呼ぶに値する者を。
奴は千メートル先にいる。別世界だ。持ち得る中で最も高倍率のスコープで覗き込んでも、神は点だった。
それでも、神からは後光が感じられた。支配者に相応しい威風堂々とした態度があるように思える。
顔は判別出来ない。服装も、特別変わっているものではない。奴の年齢相応……老練の二文字。
そう、その二文字に相応しい服装をしているだけで、決して神を神としているのは外見ではない。
だが、奴は神なのだ。絶対的な力を単一の自我によって行使する、史上最大の暴君。
大都会で高層ビルの陰に立っているというのに、その存在感は路上の通行人数千人すら上回る。
この焼けるような暑さの元凶である太陽さえ、神にはひれ伏しているように感じられた。
 自分は神を見下ろしている、と狙撃手は気付いた。狙撃手は今、太陽光を背にしてビルの三階にいた。
都市迷彩を施した長身の体を伏せて、数十キロ分の土嚢を積み、その上に長身の精密度ライフルを用意し、
筋肉ではなく骨格で作り出した装置に溶接するように強く構えて体に引き付けて、片目を瞑っていた。
決して、その銃身を窓の外に出すことはない。これは、狙撃の経験が誰もに等しく与える知恵だ。
三階という高さは射角の限界。これより階上へ昇ってしまうと、弾道は射手の言う事を聞かない。
どう頑張っても、意思に反した地点にしか弾が飛ばないし、飛ぶことも稀にあったが、多くは飛ばない。
幾重にも織成す複数の遮蔽物に作り出された信頼の置けない風、それが常に人を裏切るからだ。
風は階が高くなれば高くなるほど、都会の安っぽい娼婦のように容易く射手を横切っていく。
湿度、気圧、重力、自分自身の心音さえも、狙撃手にとってはなければないだけ嬉しい。
当然、考えられる問題を減らせるのならば、それは自信につながり、精度の向上に繋がる。
狙撃手の本音を言えば、通行人がいないならば、もっと近くの、一階から撃ちたいぐらいだった。
それどころか、当たり一帯を核爆弾の使用は不可能にしても、サーモバリック弾で蹴散らしたかった。
しかし、それは許されない。なぜなら、狙撃手は狙撃を行うから狙撃手なのだ。
ターゲット、スナイパーライフル、シャープシューター、この三つから構成されているのが最後の領地となる。
 やがて、照準の十字線が神と重なって、神の姿が消えた。狙撃手は引き金を絞り始める。
引ききれば、音速の二倍以上で小型弾道ミサイルのような非情な弾丸が飛来し、対象に命中することになる。
彼は対象の頭は狙わない。千メートルもあると命中まで一秒近くある。実は頭というものは機敏だ。
頭は首から突然に動き始めるものだから、柔な選択だと偏見がない限り、この距離では誰もが胴体を狙う。
それでも、腹に命中して腸を空にすることだってあれば、胸に命中して対象を血で溺れさせることだってある。
でも、それで充分、人を殺せる。ならば、神を殺せるはずだ。奴は神だ。だが、神でしかない。それだけなのだ。
引き金は羽毛のように軽い。慎重に、慎重に、慎重に。今に、神はその運命を遂げようとする。
地球という作品を残して、永遠の眠りにつく。神だからといって撃たれて死なない道理は無いはずだ。

 ふと、狙撃手に体を這いずる蟻の足音さえ聞こえてきそうな沈黙を汚す音が聞こえた。
それが、狙撃手の意識を千メートル先から、千メートル手前──射撃地点に呼び戻した。
いや、音ではなかった。意識の端に転がっていた本能的な直感。それがこの無機質な空間に満たされた全てとなった。
 ──本当にこの世の神を撃つべきなのか?
 最悪の疑問、狙撃手の判断を狂わせ、着弾点を狂わせ、何もかもを狂わせる。しかし、集中だ。
狙撃手は自分に言い聞かせなくてはならない。目的以外の一切を頭から追い出さなくてはいけない。
 人間も、ビルも、パソコンも、世界も、発展という名で覆い隠された。
内部をある種のインターフェイスで複雑な様相を濁し、誤魔化す。昔は今よりもずっと剥き出しだった。
だが、今は違う。敵も味方も無い。人間は思想をかみ殺し、偽りの自分を演じる。
ビルは、生活に直結するようなものは地面や壁に埋め込んで、非効率極まりないものを提示する。
パソコンは、システムを簡略化──したかのように見せかけて、操作を安易にし、真には複雑にする。
世界は、半分ぐらいが仮想の空間、つまりは概念上の情報に溶け込み、物理空間は陳腐化した。
 だが、スナイパーライフルは違う。と、狙撃手は思った。だからこそ、信頼に値する。
 スナイパーライフルはいつだって剥き出しだった。目的に関係の無いものは一切無い。純粋だ。
誰も格好良くしようとデザインを派手にしたり、彫刻を施したり、無駄なパーツをつけたりはしない。
FCSを取り付けることがあっても、MP3プレイヤーを取り付けようなどという馬鹿もいない。
ただ、弾丸を望んだ場所に正確に、それも驚くほど速く送り届けるための装置。それがこれだ。
 そうだ、出来る。と、狙撃手は確信した。神が殺されることを望まなかったなら、どうして人間にライフルを与えた?
 狙撃手は笑った。胸は揺れてない。顔も歪んでない。あるのは、塗装の下の蒼白にも近い顔と凍りついたような体。
それと、動いているのを認識するのが困難なほどに静かな人差し指。しかし、確実に笑っていた。
 まるで不思議の国のアリスだ。神は、同じ時に留まっていたいのならば、急かなくては!
 時は止まる。神の死という形で、神のいない新たな時が刻まれ始める。──そうだ。
 間もなく引き金が引かれ、数秒遅れでこの世の神が破裂した。

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