939(33停止目)

 

出張先の地方都市での仕事を終え、夜のフェリーに乗船するべく郊外の港へと向
かう電車に乗り込む。まだ宵の口を過ぎたばかりの車内はかなり混み合っていて
座るのはおろか吊り革すら確保できなかった。ドア付近の通路中央で なんとは
なしに斜め前の窓を他人の頭越しに眺める。窓の外には 蒼黒い薄闇の中に
海沿いの施設群が影絵のように立ち並んでいた。開いた窓からは涼しげな風が
潮の香りと共に吹き込んでくるが 冷房なしでは少々暑い
田舎でまでラッシュにもまれるのは勘弁してもらいたいものだ などと考えていると
突然脇に垂らしていた右腕を掴まれた。
驚いて前に視線を向けると 一人の女子高生がこちらを睨みつけていた
「この痴漢!」
ありえない・・・・。確かに私はいかにも女に不自由していそうな外見をしているが
犯罪を犯してまで性欲を満たそうなどとは考えていない。むしろそんな外見だから
現実の女に軽く絶望して二次元よりの嗜好を持つに至っている。
百歩譲って三次の女に欲情し 百万歩譲って犯罪行為に手を染めるとして、だ
目の前の太め(私より)重め(180?成人男子の私より)の女子高生に手は出さない
安香水もつけ過ぎだ。あとメッシュをいれる前に黄色い歯を白くしろ。
「パンツの中に手 突っ込まれたぁ。変態オヤジ!」
コレのパンツの中に興味を持つ者は確かに変態呼ばわりされても仕方がない
だが人違いだ。
私は真犯人を見つけるべく右側を見た。右手を掴まれている以上可能性は高い
が、被害者に手が届く範囲にはバッグと携帯を持った若い女と両手で風呂敷き
包みを抱えた老婦人しかいなかった。電車内でのマナーや敬老精神について
思わないでもなかったが、今はそれどころではない。
左に視線を走らせる。犯人は被害者の意識を己と反対側に誘導したのかも
そうであって欲しい
こちら側は男だった。だが、肩を組んでそれぞれ外側の腕に松葉杖を持つ怪我人
二人三脚は捜査圏外だろう。常ならば目を引く組み合わせも今はどうでもいい
被害者の前には閉まったドア。となると私の背後の人物だろうか?振り返る
「チョ マジアタシ こいつが痴漢してるの見たよ」
仲間か!背後にいた別の女子高生が事実とは異なる言葉を吐く。
私以外に痴漢可能な者はいないが断じて私はしていない。そして虚偽の証言
これは・・・・・・痴漢詐欺だな

打開策を模索せねばならない
1.容疑を否認する
被害者による現行犯の告発 第三者の証人 容疑者は女っ気のなさそうな外見
状況はあまりに不利だ
2.この場を逃走する
走行中の列車は密室殺人のネタになるくらい脱出不可能だ。しかも満員

ただでさえ暑さを感じていた車内の温度が一気に上昇したかのように感じる
乗客の視線が集中している。私にはどんな感情が向けられているのだろう?
卑劣な痴漢行為を行う者と思われているだろうから嘲り・軽蔑・義憤は間違いない
このような形で性衝動を発散せざるを得ないのは外見故と同情されているかも
このような女を欲望のはけ口とする歪んだ趣味の持ち主と誤解されているかも
降って湧いたような不幸に嘆かずにはいられない
私が悪人ならば幾分納得はいく。だが善人とは言えなくとも平々凡々小市民として
お天道様に恥じる事は無く生きてきた私だ。外見に起因する謂われない迫害にも
耐えてきた。人生に多くは望まない。大金は不要、生活費保険料老後の蓄え 
後、たまに本を買えればそれでいい
恋人も不要、というか不可能。即ち、生物としての本能すら遂行できなくてもいい
ただ穏やかに日々を過ごしたいだけだ
それなのに・・・
口々に 精神的ショックだ駅に着いたら警察だと喚く自称被害者とその仲間、
ずいぶんと嬉しそうじゃないか
このままではまずい。この連中に対する殺意が湧いて来た。このままでは殺人犯
デビューをしてしまう
絶体絶命の私に出来るのはこの状況から逃げ出せるよう、ただ願う事だけだった

その時 奇跡が起こった

突然 視界が白い光に満たされ、その瞬間私は声を聞いた
「ユー!justラァァッキーーメーン。ユーガッチャ ミラクォnow
G・O・D!リスペクト イナッフ」
怪しげな言葉が告げられると光は収まり 再びいまいましい車内の光景が現れる
だがその光景が先程までとは異なっている事を 私は既に理解していた
前門の重女子高生はありもしない精神的苦痛をまくし立てる途中で固まっている
口から飛び出したイヤな色の唾液が私に向かう軌道の空中で留まっていた
後門の支援女子高生は心にも無い社会正義を声高に叫ぶ途中で固まっている
顔面には隠し切れずに浮かび上がったいやらしい笑みが貼り付いていた
私を苛んできた視線の集中砲火も今は無効化されている
私以外 世界の全てが停止していた。停止時間は30秒。それも既に知っていた
迷い無く理不尽な束縛を強引に振り切って(5秒)
混み入った車内を掻き分け押し退け窓辺に駆け寄り(10秒)
開いた窓を一杯に押し上げ(5秒)
窓に飛び込み荷物をクッションに着地し(5秒)
電車から転がり離れる(5秒)
そして 轟音と共に電車は去って行く。一人の男が忽然と姿を消した謎を乗せて
身体の所々が多少痛むが問題は無い。荷物を手に晴々とした気分で歩き出す
線路と海に挟まれた殺風景な倉庫区画も 今は何より美しく見える
無個性な構造物も錆びたドラム缶も年季を積んだフォークリフトも美しい
ナンバーを隠した車もライトに浮かぶ白い粉と現金を交換する男達も美し・・・?
背後から聞こえる拳銃の発射音には意外と迫力が無い。落ち着いて海にダイブ
この程度 絶体絶命ではない。奇跡に頼るまでもない事だ

私は人生に多くは望まない主義だったしこれからもそうだろう。間違いない

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