86(40停止目)

まぁ、こんなんじゃダメだわな。
今のまんまじゃ。
そんなときに、あー、せめて30秒でもいいから時間止めてぇわー、ってな話になって、

「…なんで?」

なんて問われる。
キミは多分、俺の気持ちなんかわからねぇだろうし、
俺だって絶対にキミの気持ちなんか知る由もない。

キミは華奢でスレンダーで背は低いけれど、スタイルはいい――と言っても、全体的なバランスとして、だ。
けして豊満というわけではない――し、人当たりの良い人格者だし、頭は良いし、友達だって一杯いるし、
控えめに評価しても美人の部類に入るオンナノコだ。
対する何の取り得もないあらゆる分野で平均以下のダメ男である俺が、キミとの共通見解を持て、なんて話が土台無理なわけであって。

「わかんねぇよ」

そう答えることくらいしか出来なかったわけで。

そのときの俺は、まぁ。
こんなんじゃダメだわな、少なくとも今のままじゃダメだな、と
そんな漠然とした不安を抱えるだけで、それをどうやったら解消できるのかとか
解消するための具体的な方法を思いもしなかったし、行動すらも出来ず毎日を無為に過ごしていたからこそ

時間を止めたい

なんてバカな考えを持っていたのだろう。

なのに。
そんな俺の気持ちを、キミは、いつものように文庫本に視線を落としたまま、

「貴方のそれは、多分喪失への恐れが発現した願望でしょうね」

などと。
そう。

「喪失への恐怖。時間の停止は停止と停滞を意味する。
 そこには変化はないけれども、一切の劣化が存在しない。つまり喪失すらもない」

なんて、明確な答えで提示したのだ。

「喪失はない。変化もない。今のままじゃダメだと思っている。
 だけど動く気力は無い。ならせめて現状を維持したいと思う。
 どうやったら現状を維持できるのか?
 だけどその方法すらも思いつかない。
 人は老化するものだから。社会は変動するものだから。
 ―――時間を止めたい、と願うのは、そのすべてに受動的で消極的な願望の発現に過ぎない」

そう。
残酷なまでに的確で適当な言葉で俺を言い表したのだ。
俺は絶句していた。

意味などなく、意思すらなく、意義さえもない。
だから、きっとキミが後に続けた言葉は、俺への挑戦だったんだろう。

今更ながらにそう思う。

そう。

「貴方は、きっと時間を止めても、止めることが出来ても変わらない。
 きっと変われない。
 ……それを実証するために、私は貴方に『時間を止める能力』をあげます」

その甘言は、決して受け入れるべきではなかったのだと。

一番最初は時間だった。
時間さえ止まれば良いと思っていた。

やる気のないこの人生で、それを煩わしいと思う原因、そのすべては時間だと思っていたからだ。
なにをしなくても、なにを望まなくても、時間だけは経過し、変化していく。
その経過について行けず、その変化を受け入れられず、ただ取り残される感覚が焦燥へと繋がるのだ、と。

だから、時間が止まればそのすべては解決するのだと。
きっと、そうに違いないのだと。

――――でも、違った。

停止した時間の中、走る。
ただ只管に奔る。

人が走る理由なんか、多くても三つだろう。

ひとつ。何かを追いかけるとき。
ふたつ。何かから逃げるとき。
みっつ。俺が思いつかない何か。

俺はその三つの理由のふたつ目。
何かから逃げるためだけに走っていた。

停止した時間。
俺と……彼女だけが動いている。

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