649(42停止目)

時を駆ける喪男

「あ――」
 速水喪こみちが振り向いたとき、赤い風船は子供の手を離れ、アーケードの天上に向かって昇り始めていた。
“今ならまだ間に合う”
 その思考を意味として理解するよりも早く、喪こみちは息を止めていた。
 瞬間、世界は静止する。
 そべての存在がその活動を停止し、硬直する。
 喪こみちの目に移る世界は、さながら一枚の写真のよう。
 林立した石造のごとく動かない人々の間を、喪こみちは早足で駆け抜けていく。
 息が続く間に、あの子供のもとまで到達せねばならない。
 子供は上空に手を差し伸ばした姿勢のままで、そこにいる。
 風船は――残念ながら、跳び上がっても届きそうにない高さで静止している。
 気は進まないまでも、喪こみちは子供の肩を借りることにした。
 否、肩どころではない、喪こみちは今、子供の肩と頭の上にその両足で立ち、バランスをとっている。
 しかし子供はびくともしない。
 停止した時の中では、他の物体に影響を与えることはできないのだ。
 足の下の子供は今、いわばダイアモンドの石像であり、踏もうが叩こうが爆破しようが平気の平左なのだ。
 ただそれも、喪こみちが息を止めている間だけのこと。
 ――で、あるから、タイミングは慎重に図らねばならない。
 ひざを曲げ、幅跳びの要領で踏み切る。
 空中で、両足が子供から完全に離れたたのを確認してから、大きく息を吸い込む。
「ぶはっ!」
 不細工なうめき声を上げながら、突如目の前に着地した男の姿に、子供は目を白黒させていた。
 すぐそばにいた子供の母親、さらに通行人の何人かも、何もない空間から出現した喪こみちを、驚愕の表情で見つめている。
「――ほら」
 荒い息づかいのまま、掴んでいた風船の紐を子供に差し出す喪こみち。
 子供は目をぱちくりさせ、条件反射的にそれを受け取った。
 そのまま歩き出す喪こみち。
 奇異の目に晒されているのは、当然のことながらいい気分がしない。
 ただほんの少し、顔が緩んでしまう。
 それは自己陶酔と優越感に他ならないことを知っている彼は、恥じ入り、表情を引き締めるよう勤める。
 再び動き出した時間、何事もなかったかのように動き出した群衆の中に呑まれていく喪こみち。
 そんな喪こみちの背を、赤い風船を手にした子供はぼんやりと見つめていたが、はっと気づく。
 こんなとき、父母は、幼稚園の先生は、どうするべきだと自分に教えたか。
「ありがとぉー!!」
 アーケード中に響き渡るような声で、子供は叫んだ。
 遠く、背中ごしに聞こえてくるその声に、喪こみちの表情はまたしても緩んでしまう。
 しかし、今度それは醜い感情からではないので、喪こみちは気兼ねなく微笑むことができた。
 自らが得たこの超常的な力を、他人のために役立てることのなんと素晴らしいことか――
「――おじちゃぁん!!」
 がくっ!
 膝から崩れ落ちる寸前で踏みとどまり、喪こみちは思った。
“あのガキ、恩を仇で返しやがった!”
 年のわりにフケ顔な速水喪こみち、21歳の春の出来事であった。
 人生の春は、まだ来ない――

 END

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