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魔法使いにありがちなこと

 そこは新天地への最前線だった。
地平線まで見渡す限りの荒野が広がり、点々と粗末な建物が設けられ、
人々は次の可能性を夢見て更なる未開拓地を目指して開発が進められていた。
 何時の時代もそうであるように、その街の道徳心も極めて低く、
階級に限らず刀剣を腰に帯びる物や鎖帷子で鎧う者も多く、
時には先住民と争い、時には金鉱を巡っては住人に死傷者が出ていた。
 加えて、このような光景が今では日常茶飯事なものだから、
街中で見慣れぬ浪人が抜刀して小汚い盗人を刻もうとしていても、
誰一人として気に止める者がいるはずもなかった。

 まだ陽が高く、群雲が夕焼けに染まり、肌が焼けるような日だ。
彼方の真紅の山脈が、獲物を貪り血を滴らした獣のあぎとの如くそり立っている。
 たった二人の男を中心に、何十という男や女が円を作り、様相を見守っていた。
 「その点は重要じゃない」
 中央を構成する二人のうちの一人が言った。。
 灰色の外衣の下から広刃の刀を握った右腕を出しているジェットという男だ。
彼の眉間は鏃のように絞り込まれているが、声に憤怒の欠片もない。
太陽光を背にして透き通った頭髪が、乾いた風で炎のように瞬いた。
 「その点は重要じゃないんだ、坊や」彼が繰り返す。
「お前が俺の金を盗んだ事なんて、俺には実にどうでもいい。
だから、その金はお前が持ってるといい。返す必要はないんだ。
きっと、これからの人生で金がうんと必要になるだろうからな」
 「え?」返答は、何とも間の抜けた声だった。
 銀貨が毀れ出た巾着袋を握り締めながら、地面に倒れこんでいた盗人。
剣士を見上げる顔には恐怖と疑問の入り混じった複雑な表情が浮かび、
徐々に疑問の度合いが多くを占め始めると、すぐに苦痛で歪んだ。
 ジェットが目にも留まらぬ一太刀で盗人の右手首から先を切断したのだ。
 声にならない悲鳴が街中に走り、天まで届き、全ての騒音を掻き消した。
しかし、助け手などあるはずもなく、幾つかの門戸が窓を閉めるだけだった。
円を形成する外野から笑い声もあがった。ここでは残忍さと他人の喧嘩は娯楽だ。
 盗人は激痛に悶絶しながら地面を転がり、男の全身の震えが大地に軌跡を描く。
切断された掌が地面に巨大な蜘蛛のように座して、血が巣のように広がった。
 「さぁ、次は反対の手だ。すぐに止血すれば死にはしない。
今の俺のもっぱらの関心後は、両手を失うお前がどうやってその巾着を、
最寄の病院にまで持っていくかって事なんだが……?」
 剣士は呆れたように笑うと、うすくまる男に近づき、刀を振り上げ──。

 振り下ろされることはなかった。
 剣士の手の中は空になり、振り下ろされぬまま宙を漂っていた。
刀は左右に小刻みに揺れながらも、地面に突き刺さって立っている。
 気付くと、ジェットは太陽をぼやけた状態で眼前に捉えていた。
 背後から声がする。円を作る外野ではない。もっと近い、内側から。
 「充分じゃない?」
 黄色い、まだ若い女の声だった。
 ジェットが振り向くと、十五センチ程の杖を持った女が、
地面で団子虫のように縮まった盗人の横に座り、丁寧に止血をしていた。
見た事のない陶器の器から塗り薬を取り出したり、包帯を巻いたり、
彼女は黒い外套を股下で切り取り、腰帯には杖用の吊革を付けている。
膝当てと脛当てを革紐で巻いて、革靴の踵には金属板を使い補強していた。
三角帽は頂に至るまでに三回は無作為な方向に歪み、奇妙な影を作っている。
 「このまま両手を失ったら、誰が彼の止血をするの?
やり過ぎよ、確かに物を盗むのは罪だけれど、あなたに裁く権利はない」
 女が粉薬を水筒の水と一緒に盗人に飲ませると、辺りは静まり返った。
 「ああ」ジェットがわざとらしく感嘆の声を挙げた。「魔女──巫女様か」
 女はジェットを睨み返し、沈黙するだけだった。
ジェットは地面に刺さった剣を抜き、鞘に収めると、話し続けた。
 「この地区の巫女様だから……ああ、エウアンゲリオン?
それともイバンジェリン? 違うならエヴァンジェリーナ? ゴスペルか!」
 「エバンジェル」魔女が言った。「私はエバンジェル」
 その名を聞くと、周囲の外野が跪いて、彼女に深い礼をした。
ただ一人、ジェットだけはその場で見下ろすように彼女を睨んでいた。
 「悪い報せだ」彼が言った。

 

 既に太陽は沈みこみ、山脈は空に溶け込んで、月が静かに輝く夜だった。
見捨てられて久しい渓谷は静寂に支配され、数少ない建物の教会も炭化している。
未だに香る、その燻るような匂いが、澄んだ空気に交じり合って心地よかった。
ここに生物の気配はまるでない、ただ二人と一匹を除けば。
幽霊街で繰り広げられる死闘は、誰に捧げられるわけでもなく、ただ行われる。
 「祖国のために」頑強な剣士は言った。
 「生き残るために」抜け目のない魔女は言った。
 遺跡と表現するにも相応しい瓦礫を踏み分けた二人の上に、巨大な影が落とされた。
雷鳴にも似た咆哮が大地を震わせ、心臓を破裂寸前まで加速させる。
 「回避しろ! 奴が来るぞ!」
 ジェットが叫んだ。右手で素早く広刃の片手刀を鞘から引き抜き、
左手には短刀──というよりは小刀に近い得物が逆手で握られている。
 上空で旋回した翼竜は轟音と共に風を切りながら急降下して二人に迫る。
その左右の手で研ぎ澄まされた鋭い五指の爪は、まるで第二の口だった。
 身構える二人の間に向かって低高度を高速飛行する翼竜は両手を広げて襲い来る。
突進してくる対象を、内側に流すようにエバンジェルは咄嗟に身を捻った。
ジェットは片手刀を振るが、爪に遮られて弾かれてしまい、
続けて小刀を突き立てるが、鱗に刃が立たず折れてしまった。
 次の瞬間に、体勢も立て直せぬ二人に翼竜の両脚の爪が深々と食い込む。
滴る血液で空に奇跡を描きながら、翼竜は再び上空へ舞い戻った。
 質量の弾丸が齎した暴力は圧倒的で実に残酷で一片の容赦もないものだった。
 ジェットは痺れる左手をその存在を確認する為に強く握りながら、怪我に目をやった。
鎖帷子が捲り返り、革の肩当が千切れ、布の服が真紅に染まっていた。
幾らかの出血が見られるが、傷はまだ浅く、骨までは達しておらず、戦えないほどではない。
だが、突風で舐められた大地からは土煙が上がり、痛みで視界もぼやけていた。
 「くそったれ!」ジェットが言った。「あの化け物、この暗さでもしっかり見えてる。
それに俺の小刀が折れた、板金鎧並みの鱗だ。しかも、戦術が的確ときてる。
中央に飛び込めば、火力が最大になるって事をよく心得てる。
加えて、奴は決して無茶をしない。当て逃げに徹して、上空で俺達が弱るのを待つ気だ。
大した奴だよ、全く。最悪だ。とても動物の知恵とは思えない。
くそっ、これほどだって知ってたら、絶対にここに来やしなかったんだがな。
おい、エバンジェル、損害はどうだ? おい、聞いているのか。エバンジェル?」
 返事はない。翼竜が天に吼える声だけが聞こえた。
 「まさか……冗談だろ? 仮にも巫女様がやられるはずが……」
 土煙の中から弾かれた片手刀を探す最中、エバンジェルを探す。
 いない。
 どこにもいない。
 彼女は地上にいなかった。

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