354(42停止目)

 電車が来る。地下鉄だ。あと一歩。あと一歩で全てが終わる。
 放送が入る。白線の後ろまで下がれと、立ち尽くす少女に警告する。
駅内に人気はない。放送者は意図せずとも、この放送は彼女だけのものだ。
少女は立っている。高校にも行かず、家にも帰らず、この駅に立っている。
だが、少女には気にならなかった。全てが終わるなら、そんなもの糞食らえだ。
 あと一歩。それをカロリーに計算したらどの程度だろう?
人間が一生に歩く距離に比べたら──これで人生が終わるとしても、
やはり誤差の範囲であると断言できるほどに僅かだってことには違いない。
 電車が来る。ライトが自分の頬を照らした。あと少し。
 あと少しで死ねる。
 「きゃっ!」
 少女が絹を裂くような悲鳴を上げた。天地が逆転した。
自分は今、重心を失った。その漠然として事実だけが先行した。
転倒している。頭部が電車の進行方向へ投げ出されようとしている。
 押された。後ろから誰かに押されたのだ。間違いない。
 このままだと私は──死ぬ?
 次の瞬間、手に何かが触れた。勢いで振り向けない。
だが、それを全力で掴んだ。力一杯、拳が潰れるほどに。
 これは人の手?
 腕が抜けるんじゃないかという程の力で引き上げられた。
少女も、手を強く握り締め、自らの体を引き上げた。
 電車が来ると、その鋼鉄の箱が裂いた風を感じた。
そして、芯が抜けたようにその場にへたり込み、その手の主を探った。
 立っていたのはまだ、幼さの残る小学生か中学生ぐらいの子供だった。
群青色の帽子を被り、ジーンズは年季を感じさせる深い紺で、
カーキ色のコートと黒のマフラーで顔の殆どが隠れていた。
 「まったく」と子供が呆れたような声で言った。
「強く握りすぎ、腕ごと持っていかれるかと思った」
 「な」と少女の声が漏れた。妙な感情が芽生えた。
この感情にはよく覚えがある。悲しみ?申し訳なさ?それとも感謝?
……どれとも違う。これは怒りだ。押されたことへの怒り。
 「あんた! 何考えてんのよ!? 私を殺す気?」
 少女は絶叫した。停止した電車のドアが開いた。
子供は面倒くさそうにため息をつくと続けた。
 「だって、お前死ぬ気だっただろ? 手伝ってやっただけだ」
 「なっ……何よ、それ!」
 「それなのに、いざ死ぬとなったら悲鳴上げて俺の手を掴んで……。
死にたいのか生きたいのかはっきりしろよな」
 「あんたには関係ないでしょ!! おせっかい!!」
 少女は声が裏返るほどに大声を出していた。人気のない駅内に響く。
 「まぁ、いいや」と子供は言った。「悪かったよ。
そりゃ、俺は関係ないな。ともかく、まだ死ぬ気ならここに来てくれ。
いや、電話あるんだけど電話番が出た例がなくてね。
直接来てくれると実にいい。本当に良い。大きい声じゃ言えないけど、
うちじゃそういう死にたがりの最後の一歩を手伝う仕事しててね」
 子供は名詞を渡すと電車に飛び乗り、呆然とする少女を残し行ってしまった。
渡された名詞には住所と電話番号、煩雑な田舎の地図、
それに『万能葬儀屋──殺害から埋葬まで』と書かれているのみだった。
 少女は帰宅すると、名刺に書かれた番号に電話をしたが、無駄だった。
 誰もでんわ。

 そこは沈黙に支配された場所だった。
 数少ない駅からは遠く、開発も断念され、皆に見放された郊外。
外套は少なく、夜は酷く暗い。田舎という言葉がこれ以上なく似合う。
もう間もなく冬季に入るというのに、むせ返るような緑の香りが未だに漂い、
舗装されてない大地は、人間の足によって長年踏まれることで道となっていた。
 地平線まで見通せば民家は疎らに点在するが、人気は殆どない
今時じゃ小高い丘を右往左往したがる人間などはいないのだ。一人を除いて。
 だが、その唯一の人間である少女さえ、間もなく姿を消そうとしていた。
決心したからだ。前進すると──それが後退かもしれないが。
 少女は昨日と同じ、黒髪を後ろで結い、厚手のコートとマフラーをして、
両手を使い捨て懐炉の入ったポケットの中で握りこんでいた。
涙で晴れ上がったように目は赤く、視線は正面を見据えている。
やがて、森に通じる呆れ返るほどに長い石段を登り始めた。
 途中で首のない地蔵や枝分かれした分岐地点があったが、
道と呼べるようなものは常に一つであったこともあり、迷うことはない。
汗が額から垂れる頃には、お世辞にも綺麗とは言えない小屋が立っていた。
空では沈みかけた太陽が群雲を哀愁の漂う夕焼け色に染め上げている。
 何とも粗末な小屋には表札もなく、鍵さえも掛かってない始末で、
ポストには何年も開いた様子がなく、蜘蛛の巣が張り巡らされていた。
 ここまで来たら、もう引き下がれない。全ては覚悟したはずだ。
 少女が恐る恐る中へ入っていくと、奇妙な物資が棚に陳列されていた。
何処かの国の呪い道具のようなものが幾重にも並び、香が焚かれている。
中央の台──多分、レジなのであろうが、男が突っ伏して寝ていた。
その床にはコードが抜けている黒電話が半壊状態で転がっている。
 「すいません!」と少女は言った。男は起きない。
もう一度、大声で繰り返した。「すいません!」
 男は痙攣したように飛び上がると奇妙な言葉を呟きながら再び椅子に座った。
 「え? 何? お客さん?」
 男は目をぱちくりさせながら少女を見回すと立ち上がった。
男は喪服を色だけ真紅にしてしまったような不自然な服装で、
胸ポケットには鼻筋で固定して使う珍しいサングラスが収まっている。
髪型はライオンとハリネズミの中間といった形容が相応しいものだった。
 「あの、これ」と少女は子供から受け取った名詞を差し出した。
「ここに紹介されて、来たんですけど……」
 「……。それってもしかして、超失礼なガキでした?」
 「ええと、まだ小中学生ぐらいの男の子で……」
 「ああ、やっぱり。あいつは私の弟でね。
あれ? 妹だったかな……? どっちでもいいか」
 男は苦笑いすると奥の扉を開けて手招きした。
 「まぁ、立ち話もなんですし、入ってください」

 中は最初の部屋と似たようなもので、他には段ボールがちらほらとある。
部屋の中央にガラスの机が置かれ、それを挟むように緑のソファがあった。
最初、カビが生えているのかと思えてしまったぐらい生々しい緑だ。
 男は奥の席に座り、少女は扉に近い席に深く腰掛けた。
息を落ち着けている間に黒い喪服の小柄な女がお茶を持ってきて、
そのまま霧がそうであるように気にならないうちに消えた。
 「それで」と男が言った。目がぎらりと光る。
「今日ここに来たのは、死にたいからですよね?」
 「……はい。でも、学生なので……お金はあまり……」
 「まぁ、そういう話はまだ良いでしょう。
というのも、死に方によって値段も全然違ってくるんですよ。
そりゃ、そうでしょう?火口に飛び込むのと電車に飛び込むのじゃ、
やらせる側の苦労だって断然に違うわけですし、
SWAT隊に射殺してもらうための準備と首を吊るための準備が、
同じ労力で出来るわけじゃないんですから?」
 「はい……」
 「まぁまぁ、そんなに堅くならないでください。
とりあえず、希望の死に方はありますか?」
 「なるべく、苦しまない方法が……」
 「はい、なるべく苦しまない方法……と」
 男は机の上にあったメモ帳から一枚ちぎると、ボールペンで記録し始めた。
見たことのない文字で、少なくとも彼女が読めるものではなかった。
 「でも、どうして死にたいんですか? まだ、若いのに」
 「生きているのが……すごく辛いんです」
 「ははぁ……失恋でもしましたか?」
 「いえ、失恋が出来ないんです。でも、恋も出来ないんです。
どうしたらいいのか……わからない……」
 少女はハンカチを取り出すと顔にあて、鼻を啜った。
いつの間にか小粒の涙がこぼれ始めていた。
 「えぇ、なるほど。そう、例えば教員に恋をしてしまった?」
 少女が無言で首を振ると、涙が飛び散った。殆ど号泣していた。
 「私が好きになったのは弓道部の先輩でした。
別に大したことじゃないんです。普通の相手、普通の出会い、普通の恋愛。
最初の切欠は、私が親の都合で越してきたばかりのときに、
ちょっと親切にしてくれたってだけの、そんな理由だったんです。
でも、何度も接しているうちに、段々好きになっていって……。
その事を告白すると相手も私を好いてくれました。
とても嬉しかった……血液が沸騰しそうでした。
だけど、駄目なんです。私じゃ駄目なんです。駄目だったんです!」
 「ええと、話が見えないんだけど」

 「その先輩は、私の腹違いの兄だったんです!
私も彼もそんなこと知らなくて、偶然アルバムを整理してたら……。
あんなもの……知らなければ良かった……。
でも、私達は知ってしまったから……」
 「ああ、うんうん」
 「こんな抱いちゃいけない想いを抱いてしまっただなんて……。
もうどうしたらいいか……私にはわからないんです」
 「だから、死にたい?」
 「はい……」
 「なるほど」男が言った。「なるほど」
 少女は出されたお茶をぐいっと飲んだ。喉が枯れそうだった。
既に温くなっていたので、元から温かったのかもしれないが、飲み干した。
 「でも」と男が言った。「別に死ぬことはないんじゃないかなぁ?
そりゃ、君に抱いた想いが実際にどうなのか、僕には分からない。
だけど、抱いちゃいけない想いなんてないと思うな。
確かに現実のルールと食い合わないところがあったかもしれないけど、
その想いは紛れもなく本物だったわけだろ?
だったらそれでいいじゃないか。想いさえあれば、いいじゃないか。
相手が兄だからって、君はその先輩を嫌いになった?」
 少女は再び大きく首を振った。
 「だから、駄目なんです。いっそ、嫌いになれれば……!」
 「ふうむ。じゃあ、今すぐ死にたいわけだ?」
 少女は小さく頷いた。胸が熱い。酷く疲れた。眠気すらある。

 「じゃあ、これもいらないわけだ」
 男はそう言うと、手に持っていた小さな二つのカプセルを飲み込んだ。
 「君は何を飲み込んだのって顔をしてるね。
今、僕が飲んだのは解毒剤。お茶に入っていた猛毒のね。
これ二つっきりの特別製だから、他にはない」
 「毒?」少女が聞いた。
 「そうだ。遅効性の、紛れもない殺人毒。
君はゆっくりと死ぬ。段々と眠くなっていって、
そのまま眠ると心臓が止まって、二度と目が覚めない。
だから、何も苦しくはない。全部は君のお望みどおりだ」
 「こんなにいい加減でいいですか?」
 少女が笑った。確かに瞼が重い。疲れているせいで今にも眠りそうだ。
 「こっちもプロだからね。何かとコネがあるんだよ。
料金も葬儀代に上乗せするからご心配なく。
それより後、僅かな命なんだ。遺言は?
もう書いてる? それとも今から紙に書く?」
 男は少女に髪とペンを寄越した。
 「参った、考えてなかった。どうしよう……。
まず、パパとママに書かないと。それと彼にも。
どうやって、書き出したら良いんだろう?」
 「大雑把で良いんだよ、遺書ってのはそういうものだから。
父さん母さん、先立つ不幸をお許しください、とかね」
 少女は目を擦った。
 「それから、私は友達にも書かないと。幼馴染の子がたくさんいるの。
それにお世話になった弓道部の皆にも。中学の頃の友達にも。
お爺ちゃんとお婆ちゃんにも書かないときっと悲しむだろうな。
なかなか思いつかない。眠いからかな」
 「かもね」
 「どうしよう!? 私、眠いよ!」
 「そりゃあ、そういう毒だって説明したじゃないか」
 「ああ、どうしよう。もっともっと、皆と話したいことがあるのに!
伝えたいことが、私にはあるのに! 時間の方がないなんて、そんなのないよ。
今思うと、彼とももっと話し会えば良かったかもしれない。
何も解決出来なくても、それでも彼とたくさん話したい」
 「死人に口なし」
 「そんな……ああ、どうして今更に気づいちゃったんだろう!
私は死にたくなんかないんだ! 生きたい! もっと生きたい!
本当は生きたいのに、死んでそのことも忘れようとしてた!
死ねば全部なくなるなんて、私の想いが消えるって、そんなはずないのに!
私は大馬鹿だ。こんな時になって気付くなんて、眠い、眠い、ああ、神様!」
 少女の声は香の臭いが充満した室内に空しく響いて消散した。
 「神様! いや、誰でも良いから! 誰か!」
少女の流す大粒の涙で手紙が皺だらけになった。インクが滲む。
 「誰か! 私の時間を止めて!」
 しかし、何が起こることもなく草花が萎れるように机に倒れこむと、
そのままゆっくりと静かになっていった。

 「終わった?」
 隣の部屋から群青色の帽子を被った子供が入ってきた。
 「ああ、終わったよ。お前、出かけるの?」
 男はにこにこしながら陽気に笑いかけた。
 「どっかの馬鹿が電話を破壊してたからな。
どーせ買い換えようと思ってたけど。
その間に、その女の子に悪戯なんかするなよ」
 「僕がそんなことするわけないだろ?」
 「どーだか。今時、睡眠導入剤なんてベタな手を使ってる奴だ。
そんな奴はムッツリだって相場が決まってる」
 「ああ、天国の父さん、母さん。
僕は誰にも信じてもらえない孤独な人間です。
どうしたら分かってもらえるのでしょう?」
 子供は鼻で笑うと、部屋を出て行った。
男は少女をソファに寝かせて毛布をかけると、呟いた。
 「まぁ、君の明日は白紙なんだ。
遺書なんて後でいくらでも書けば良いさ」

終わり。

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